コロナ禍の開始。シルクロードの終着駅から

竹内街道essay

2020年1月28日

 峠を越え、ようやく下り坂になりしばらく行くと、目の前に大阪平野とその向こうにぼんやりとした水平線らしきものが見えた。ちょうどその時、中国にいる友人からSNSで連絡が入った。

 連絡の内容は、筆者の勤める南通大学のある南通市の病院で、医療用マスクが不足しているので寄付を受け付けているというニュースの写し、そして中国ではマスクが不足しているので、日本でマスクを買い集め、南通大学に依頼して寄付の手続きをとってはどうかという提案であった。自分によこせと言わず、病院へ寄付しては、という提案が日本人らしい。

竹内峠から左「奈良盆地」右「大阪平野」

竹内峠から左「奈良盆地」右「大阪平野」

 コロナ禍に関して、これは少し大ごとかなと、認識しだしたのがこの日、つまり2020年の1月28日である。新型コロナと騒いではいるが、せいぜい以前のSARS、MARSレベルの騒ぎでおさまるだろうと、筆者だけでなく日本人のほとんどがそう思っていた頃である。

竹内街道を大和から河内へ

近鉄南大阪線磐城駅

近鉄南大阪線磐城駅

 筆者は、3週間の少し長めの冬休みを日本で過ごし、3日後の2月1日に中国行きを控えていた。休暇の最後に、竹内街道を歩いて大和の国から河内の国へ入ってみようとしたのである。

 翌日、勤め先の大学から渡航禁止を言い渡され、結果的にその後10か月間日本にとどめ置かれることになることなど、この日の時点では想像もしていなかった。そしてそのコロナ禍は、終息どころか、2021年の現在でも、新たな変異株オミクロン株の急速なまん延を迎え、全世界が戦々恐々という状況である。

「街道をゆく」

 司馬遼太郎「街道をゆく」竹内街道の巻で司馬氏の旅は奈良盆地の東端石上神宮、三輪山からスタートしている。地図で確認するとわかるが、大阪湾から上陸し竹内峠を越え、大和の国に入りそのまま三輪山へ向う一本道は、遠くユーラシアを渡る交易の道シルクロードの最後の道程であることがわかる。

 筆者はとりあえず峠をのんびりと越えてみたかったので、近鉄南大阪線磐城(いわき)駅から西へ、直接山道に入り峠を越えることにした。

自転車に乗った赤いセーターの女性

 司馬遼太郎と言うと、恋心だの、恋愛描写などとは無縁のようなイメージがある。とりわけ「街道をゆく」では、ひたすら歴史に関する蘊蓄が語られているように思うが、実際はそうでもない。特にご自身の経験を語った以下のくだりは有名であり、私も好きな部分である。

 昭和十八年の秋にこの竹内への坂をのぼったとき、多少いまから思えば照れくさいが、ま赤いセーターの自転車に乗った女性あどうせ死ぬだろうと思って、—兵隊ゆきの日がせまっていたので—、出かけたのだが、坂を登ってゆくその坂の上の村はずれから、自転車でころがりおりてきた赤いセーターの年上の女性(といっても二十二・三の年頃だと思うが)がいて、すれちがいざまキラッと私に(?)微笑し、ふりかえるともう坂の下の長尾の家並みの中に消えていて、ばかばかしいことだがいまでもその笑顔をおぼえている。

(中略)

 しかし当方としてはそれだけでしばらくボンヤリしてしまい、にわかに恋が襲ってきたような気がして—アホらしいが、それほどあの時代の青春はまずしかったように思う。

「街道をゆく」竹内街道 司馬遼太郎 から

 何やら言い訳しつつ語っておられる風情が、文面からわかるのが面白い。

 が、男が死を意識する時、多くの場合、女性を思う心に直接つながっていく。どうせ死ぬだろうと思っている20歳の男性が、すれ違いざま、自転車の女性に恋に襲われるという状況は決して特殊とは言えない。普遍的な何かがあると思う。

 女性がころがり降りてきた坂は、このあたりだろうかと思い写真を撮った。

高峰神社から見下ろす竹内街道

高峰神社から見下ろす竹内街道(後方奈良盆地に耳成山)

カミノイケ

 司馬氏は幼少期から青年期にかけて、母方の実家のあるこの竹内村でよく過ごされたという。

 村の上の方に池がある。

大和の池には万葉ぶりの名のついた池もあるがこの池は単に、

「カミノイケ」という。シモにも池があるからである。私ども子供のころにはこの池は山林の嵐気を映して、池心がおそろしいばかりに青く、他の地方と同じように主がいるといわれ、それを理由に子供たちが泳ぐことを禁じられていた。

しかし私は真夏にはさんざんこの池で泳いだ。

「街道をゆく」竹内街道 司馬遼太郎 から

 赤いセーターの女性の場所からさらに登るとはたして池があった。カミノイケがここであるかは自信がない。しかし地図で見ても、この付近では一番大きい池である。主がいそうな池(沼?)ではある。

カミノイケ?

カミノイケ?

 私がこの池で泳いでいたのは、満州事変前後だったと思うが、そんころには「大鉄」と呼ばれていた大阪アベノまでの近鉄吉野線が、この村から十八丁ふもとまでちゃんと走っていたのだが、それでも子供たちの行動範囲は隣村まで及ぶということはなかった。

 子供たちはカミの池を怖れていたが尊敬もしていた。なぜなら、これほど大きい池はちょっと近在になかったからである。

「街道をゆく」竹内街道 司馬遼太郎 から

 実は「街道をゆく」の司馬氏の旅はこのカミノイケで終わっている。司馬氏を乗せたタクシーが故障して動かなくなってしまったからという。

ヤマトから大陸をめざす

 筆者は、ここからさらに、というよりもこの辺りを起点として、竹内峠を越え、「街道をゆく」の中の子供たちの行動範囲をはるかに超え、翌日は大阪湾から大陸の方向を眺めてみようと思っていた。大陸側から日本を眺めるのではなく、日本人が大陸を目指し移動していく気分になって、3日後のフライトを迎えるつもりでいた。

28日は海の見えるホテルに宿泊

28日は海の見えるホテルに宿泊

 さて峠を越え、緩やかな下り坂を下りかかった時受け取った友人のメールへの対応の顛末を述べたい。

 翌日堺の町を周遊した後、大阪ミナミ天王寺へ立ち寄り、いくつかのドラッグストアを回り、やはり品薄であったマスクをなんとか買い集めた。元来人助けは好きな方なので、数日かけてある程度たまった時点で南通大学へ送付した。

防護服で消毒中 大学のスタッフは上司と相談したらしい。上司の判断は当時の私としては意外なものであった。上司は病院もこまっているかもしれないが、自分たちの分も不足しているのという理由で大学内の留学生たちに配っていただいたらしい。

 日本人は、最も困っている人から助けたいと願う。そしてなぜか、いざという時、自分より人を、集団を大切にしようとしてしまう。それはある場面では”美徳”ともなるが、ある場面では負の作用ももたらす。狩猟民族である中国人は明快である。「まずは自分を助けよう」ということらしい。皆が自分のことだけを考え、自分を守れば、全員が安全なのだ。さすが「ゼロコロナ」の国だと感心する。

 私は、ひ弱で優しいだけの代表的ヤマト民族なのだ。あれから2年、特にこの1年は帰国せず中国で過ごしている。日本人も、というより、私も強くならなければと、思うことが多い。

 

 

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