日本の絹織物発祥の地、大阪府池田市の呉服神社

呉服神社essay

「ごふくやさん」の思い出

 幼い頃の記憶である。家によく「ごふくやさん」が来て、母は玄関で長く話し込んでいた。色とりどりの「たんもの」が入った風呂敷を玄関口で広げ見せてくれる光景が今でも写真で撮ったかのように頭の中にある。おそらく4歳ごろの断片的な記憶の一つである。母は時には「たんもの」を買って、和服を仕立てていたようである。

反物

反物

 もちろん「ごふくやさん」とは「呉服屋さん」であり、「たんもの」とは「反物」のことである。長く「呉服」は「着物、和服」のことかとおもっていたが、実は和服の原料である「反物」を指す言葉なのだ。そして、「呉服屋さん」なるものが、しばしば家庭に訪問販売に来るというのは、日本中どこでもそうなのだと思っていたが、実はそういうことでもないらしい。

川西市と池田市

 筆者、生まれたのは兵庫県川西市である。ただ川西市でも大阪府との県境に近い場所であったのと、なによりも小学校、中学校と隣町の大阪府池田市の学校に阪急電車で通ったので、子どもの頃の思い出というと、むしろ池田の方に多い。

呉服橋

兵庫、大阪県境猪名川上の橋「呉服橋」

 さすがに小学校時代は、あまり寄り道もしなかったが、中学に上がると、クラブ活動で遅くなったりするようなことが増えると、学校からの帰り道に買い食いしたり、池田駅前の栄町商店街を悪友とうろついたりということも、人並みにやっていたように記憶している。

呉服神社 呉服神社も、筆者の小中学校時代の通学路からさほど離れていない池田市の中心にある。少なくとも池田市の住民は「呉服」という文字をみると「くれは」と読んでしまう。呉服神社とその周辺は「呉服(くれは)」という地名であるからだ。中学生の筆者にとっては「呉服(くれは)」は単なる寄り道する神社の名前であったし、地名であるから、妙な読み方をすることにも、別段不思議と感じたことはない。

 子どもの頃、単なる遊び場であっただけの神社が、よく調べてみると結構おもしろい歴史スポットであったりすると面白い。ここ呉服(くれは)は、日本における絹織物の発祥の地なのである。

呉服神社と織物

 以下、呉服神社の縁起書に書かれていたものから取捨選択して書き直した。

応神天皇

応神天皇

 応神天皇の頃のことである。応神天皇というのは実在は確認されていないが、古墳で有名な仁徳天皇の父に当たる天皇である。要は4世紀頃のこと。応神天皇の世には半島、大陸との交易が盛んになり、仏教を伝えたと言われる王仁も彼の時代にやってきている。

 応神天皇は、呉の国へ(呉の国は今の蘇州、今も昔も織物と言えば蘇州がメッカなのだろう。)人を遣わし、織物を織る技術を持った者を招聘しようとする。

 そして中国、呉の国で、呉服(くれはのとり)、綾織(あやはとり)、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)の四人の織子が選ばれ日本へやってくる。九州に着いた四人のうち、兄媛(えひめ)は胸形(むなかた)明神の希望で九州にとどまる。他の三人は海路、武庫の浦に着く。

 本論とは関係ないが、この辺り、「えひめ」「おとひめ」「むなかた」など馴染みの音がどんどん出てくるのがおもしろい。

 そして三人のうちの一人「呉服(くれはのとり)」のために、猪名の港に機殿(はたどの)が建てられ、呉服が池田に迎えられた。呉服は昼夜を分かたず布を織り、当時の日本の貴賤を問わず万人がその恩恵を受けた、という。

 仁徳天皇76年(385年)9月18日呉服大神(呉服はすでに大神となっていた)は、139歳で亡くなる。その遺体が収められているのが、今の呉服神社にある姫室であるという。

 その場所が現在の呉服神社ということになるそうだ。

呉服(くれはのとり)が眠る姫室

呉服(くれはのとり)が眠る姫室

個人的なこと

 ちなみに中学生といえば、異性への関心が芽生える頃。

 隣のクラスによく勉強のできる女の子がいた。筆者は池田駅で阪急電車に乗り隣町川西へ帰ったが、駅前で彼女は駅の踏切を反対側に渡り、「呉服神社」の額のかかった石の鳥居を抜け、その先へ歩いていった。家は呉服神社の近くなのだろう。

 中学校の三年間を通じて、ついぞ肩を並べて帰ったという記憶はない。が、彼女の後ろ姿もまた、記憶の中に一枚の写真のように残っている。

池田駅前、呉服神社の石の鳥居

池田駅前、呉服神社参道へ向かう石の鳥居

  以上です。

 

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