日本語には、仏教に由来する言葉がとても多いです。ちょっと意外なものをいくつかご紹介します。
出世
「出世」は社会的地位が上がること。
「出世」とは、人々を救うために仏様が「この世に現れ出る」ことを意味しました。ただし、現在私たちが使っている「出世」は「出世間:つまり「世間を出る」という言葉に由来します。つまり「世間を出る」=「世俗を離れて仏の道に入る」ということです。
つまり、お坊さんになることを示す言葉でした。お坊さんという高い地位につくという意味から「立身出世」を表すようになりました。
親切
「親切」は丁寧で行き届いていることです。
もとは「深切」「心切」と書いたようです。この「切」は「切断」の「切」ではなく「懇切」「切望」の「切」、つまり「しきりに」「ひたすらに」という意味です。
つまり仏教の道に「ひらすら親しむ」ことこそ「親切」ということでした。ここから、相手の身になっていろいろしてあげることを「親切にする」と言うようになりました。
我慢
「我慢する」は忍耐することや耐え忍ぶことです。
「慢」というのは仏教で「他人と比べて自分を過大評価して思い上がること」を指します。人間には「七漫(しちまん)」といって「七つの慢心」があるそうです。この慢心は人間なら誰でも持っているもので、仏教の教えは、「じっと自分(我)を抑え、耐え忍ぶことが必要」と説きます。そこから、辛抱することを「我慢する」というようになりました。
迷惑
「迷惑」は現代日本語では「他人のせいで嫌な目にあうこと」の意味ですが、中国語では「戸惑う」という意味です。
悟りに至らない迷いの世界を仏教では「迷界」といいます。「迷惑」はその迷界で、戸惑い、うろうろしていることを指します。これが中国語の「迷惑」の意味になっています。
日本では、そこから変化して「他人のせいで」困ってしまうことを意味するようになりました。
道楽
「道楽」は仕事以外のこのに熱中する、そこから転じて賭博などにふけったりすることを表します。
もともとの仏教の「道楽」とは意味が逆でした。「仏道に励んで悟りを得る楽しみ」のことを意味しました。「道楽」という文字が「楽な道」ということを想像させるため、真面目に働かず趣味や、酒・博打にふけることを意味するようになったものと考えられています。
真面目にはたらかず、ぶらぶらしている子どもを「道楽息子」などと言ったりします。
退屈
「退屈」は「ヒマですることがないこと」ですが、もともとの仏教用語としての「退屈」は「退き屈する(しりぞき、くっする)」ということですから文字通り「修行の苦しさに耐えられず屈してしまうこと」を指しました。
人間、前向きな気持ちを失ってしまうと、ものごとすべてがつまらなく感じるもので、しんなことから。だれたり、暇を持て余すことを意味するようになったようです。
以上「語源と謎解き」(板坂元著)同文書院刊などを参考にしました。
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