人生初の東北旅行
63歳にして初めて東北地方へ旅をした。
現役時代、主に京都で働いていた。出張は決して少ない方ではなく、例えば東京への往復というなら、ほぼすべてが日帰りであるが、軽く100往復はくだらない。九州、東北、北海道にはユーザーがいなかったので、行く機会はなかった。九州は中学校の修学旅行で行ったきりである。
そのような筆者が、自分史上最北記録を目指した。セミリタイアの身分でよくある熟年の気まま旅。しかし筆者のように小学生が遠足に出かけるような新鮮な気分で、心躍りつつも、おそるおそる旅に出ていく感覚は、旅慣れた人にはわからないだろう。
しかし残念?なことに、今や東北といっても実に近い。「やまびこ」号で東京を発ち、やっとこさ旅行気分になったかと思う間もなく、ちょうど2時間であっけなく仙台駅に着く。
仙台駅のペデストリアン・デッキ
仙台駅の駅ビルから外に出れば、有名な“ペデストリアン・デッキ”のお出迎えである。
何で有名かというと、かつて司馬遼太郎が「街道をゆく」の中で絶賛したからである。
この大構造があるために、仙台駅の駅前の空間は、世界のどの都市にもない造形的なうつくしさがある。色彩的にもいい。ふつう歩道橋はブリキのオモチャのような質感だし、色彩でもあるが、ここの場合、セピア色の駅舎の色をもう一つ淡くして、橋の側面材は自然石のような材をつかっている。橋の路面もゆったりしている。タイルの色は数色もちい、ほどこされている縞模様はあわい紫色で、印象派の陽かげをおもわせ、まことにむねがひらけてくるようなあかるい表現になっている。
「街道をゆく」仙台・石巻 司馬遼太郎
司馬遼太郎は「国民作家」と言われている。国民作家であるから、彼が良いと言ったものは日本国民は皆、“いいね!”と絶賛し、悪いと言ったものは悪いと思い遠ざけてしまう。(私だけかもしれない…)ペデストリアンデッキに関しては、司馬氏の時代からはたぶん代替わりしてはいるだろうが、色彩のバランスはある種、品の良さを感じるもではあった。
しかし司馬遼太郎に嫌われたものは悲劇である。仙台の話ではないが、江南の巻で蘇州の建造物のそっくり返った軒は悪趣味と一蹴され、江南地方の庭園でよく見かける石について、ああいう太湖の底から拾って来たような石を庭園に据えるような成金趣味的な贅沢、日本が真似しなくてよかったね、というようなことを書いておられた。(記憶の中で表現が多少誇張されたかもしれない。)
残念なことに中国に住んでみるとわかるが、穴だらけの石は蘇州庭園だけでなく、そこら中にある。わが南通大学にも穴だらけの石はいくつかあるので、私は毎日のように、日本が真似しなくてよかった石ころを、多少偏見の混ざった目で見ながら過ごしているのである。
東北大学、魯迅階段教室へ
すでに3時近かったので、あちこち回るより、事前にここだけはと思っていた東北大学へ行ってみることにした。
時計台も含め、校舎はけっこう新しい。旧制二高を思わせるようなものはモニュメント的に保存されているだけなのが少し寂しい。そうだ、ここは二高なのだと改めて思う。明治維新後、教育改革によってつくられたエリート校、8つあるナンバースクールの中で一高(東大)に続く二番目なのだと改めて思う。以下、京都、金沢、熊本、岡山、鹿児島、八高の名古屋まで続くのだが、改めてこう並べてみると、よくぞにっくき大阪に隣接する京都を3番目に残しておいてくれたと、逆に感謝してしまいそうになる。
魯迅の階段教室へ。魯迅が東北大学で学んだ時の教室ということらしいが、コロナ禍のためか一般公開はしていなかった。が、一応ドアを押してみると鍵がかかっているようすはない。ならばちょっとぐらいいいかと入ってみる。と、大学の職員らしくない作業服の男性がいた。文句を言われるかと恐れながらあいさつしてみると、たまたま電気関係のメンテナンスのために教務から鍵を借りて入った来たとのこと。これ幸いと中まで入ってみる。魯迅がいつも座っていたという席にも座ってみたり、少々得をした気分であった。
ということで、第一日目の終わりは小さな幸運に恵まれ、気持ちよく終えることができた。夜は何を食べたか覚えていない。ペデストリアンデッキ側ではない駅裏のビジネスホテルに宿泊。
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