猛暑の良渚で思ったこと

良渚遺跡公園入口essay

 この夏、長く行きたいと思っていた杭州市郊外の良渚遺跡へ行くことができた。

良渚へ

高鉄南通杭州 南通から、日本と同じタイプの新幹線型車両で上海経由杭州へ。中国の旅も楽になった。杭州の西湖の見えるホテルに一泊し、翌日朝から、丸一日つぶすつもりで良渚へ向かう。地下鉄2号線の終点が良渚、駅を出るとそこには、博物院、遺跡公園を回る循環バスが待ち構えていた。 

 中国の遺跡巡りでは、滅多なことで順調に目的地に到着できない私にとっては上出来のスタートである。

 この夏は蘇州の草鞋山遺跡の付近にも行った。草鞋山は6000年前の初期の水田耕作の遺跡である。3年前行った河姆渡遺跡は7000年前のものである。これに対して、良渚は5300年~4300年前、つまり中国5000年の歴史の原点という位置づけである。要は、草鞋村、河姆渡村ではなく、「良渚王国」なのである。良渚という名前からして洒落ている。

良渚遺跡公園

良渚遺跡公園案内図

 遺跡は予想よりはるかに広かった。遺跡区として世界遺産に登録されている分だけでも14.3平方キロ、渋谷区より少し小さいぐらい、東京ドームなら300個分、といってもわかりにくい。この広大さは実際に現地へ来るとわかる。

 門はいくつかあるが、バスが着いた南門から入場し、猛暑の中懸命に歩いたが、やっとたどり着いたのが南城壁門。城内にすら入っていないことに気がつく。

 城壁のある都市であることは知っていた。日本でも縄文時代後期になれば、盗っ人から家族を身を守る環濠集落というのがあちこちにできている。自分のコミュニティ内で皆が結束して身を守り、あるいは積極的に戦いをする場合の”城”になる。実はそういうものをイメージしていた。しかし良渚の城壁は、盗っ人、盗賊などを追い払うものというより、まさしく戦争を行うための構えである。

ただ、巨大であるというだけでそのような印象を与えるのがおもしろかった。
南城壁門、門へ帰る人々、南水門へ物資を運ぶ船

1.南城壁門(茶色い部分)、2.狩りを終え門へ帰る人々、3.物資を載せ南水門へ向かう船

宮殿の上へ

  すでに35℃を越えている。さすがの私も残りは園内を巡る遊覧バスで要所要所を回ることになる。一人で遊園地に来たおっさんのようで、なんとなく間抜けな感じで、誰が見ているわけでもないのに何となく恥ずかしい。古代遺跡も、研究しつくした後は、中国の人たちにとってはエンターテインメントの一つになるのだ。

1.住居跡、2.王族の墓、3.宮殿へ上る

1.住居跡、2.王族の墓、3.宮殿へ上る

 というわけで、中間は省き、最終ポイントは王の居場所である宮殿へ。ここから良渚王国を見下ろしてみる。周囲の山々の稜線は変化に富んでおもしろい。しかし山々はあまりにも遠い。河姆渡で見た人々の生活の背景としての山ではなく、王国を守るもう一つの城壁のように見え、実際にそうなのだろう。

宮殿跡からの眺め

良渚遺跡公園、宮殿跡からの眺め

纏向(まきむく)の風景と似ている

 良渚王国の宮殿跡に立ち、遠くの山々の稜線を眺めていたら、ふと昨年、これも猛暑の夏、奈良県の纏向(まきむく)で見た風景がよみがえった。

纏向

纏向

 JR纏向駅から東方向の高台へ。背後に三輪山を控える付近が、日本最古の大和(ヤマト)王権の中心があった場所ではないかと言われている。昨夏の私は、桜井から山の辺の道を北行。それとおぼしき場所を見つけ出し、しばしの間眼前に広がる奈良盆地を眺めていた。

 山並みの形こそ違うものの、距離感は良渚に等しい。画面左端の特徴的な双こぶは、大阪人にはなじみの二上山(にじょうざん、ふたかみやま、とも)である。連なる生駒金剛山系の山々は、大阪と奈良を隔てている。つまり大陸からの侵攻、もしあればの話だが、に対して、大和国を守る自然の城壁であったはずである。

再び日本人について

 想定する敵は違っても、外敵に対してそなえた構えをもつということでは、風景が似ていても不思議ではないのかもしれない。仮に纏向が良渚と同等の防御機能を備えた要塞型都市であるとして、私が不思議に思うのはそれらの成立年代が三千年以上違うことである。中国と日本の近さや交流の程度を考えると、ちょっと時間差が大きすぎるような気がする。

 日本の縄文時代は、近年考古学上の発見が相次いで、前後の区切りがまだ確定していないものの、だいたい1万数千年前から二~三千年前まで一万年程度は続いた時代である。そして後期縄文時代は良渚文化の時代に重なっている。お隣の大陸で歴史時代が始まるという大変化があっても、日本が変わらなかったのは、変わる必要がなかったからだと言われている。それはつまり争いごとが少なく、平和な時代であったということだ。

縄文の暮らし

縄文時代の暮らし

 そのような日本人は、つまり争いごとを好まず、それゆえたいした進歩もせず、比較的おとなしく暮らしていた人々はいったいどこからやってきたどんな人たちなのだろう。もちろんどこからという問いには既に回答はでている。縄文期なら北方ルート、朝鮮・黄河ルートより、長江ルートから稲作技術を携えてやってくる人たちが少なからずいてリーダーとなり従来の縄文人と融和して生活していたにちがいない。

 では、彼らは何ゆえにやってきたのか。いくらDNAを調べてもそれだけは分析不可能かもしれない。しかし大陸における争いの敗者、あるいは、はなから戦いを好まない心優しき一群の人々が、あえて故郷を捨て、海を越え日本を目指したのではないか。ほぼ脱水状態となってぼんやりした頭で、私は思ったのである。

七千年のロマン、河姆渡遺跡へ。
憧れていたというとちょっと大げさかもしれません。ずっと行きたかった余姚の河姆渡遺跡を訪れました。南通から寧波へ長距離バスで移動し一泊。二日目満を持して出発です。河姆渡遺跡は寧波の宿から西北西へ約20キロ。地下鉄とバスを乗り継ぎ、例によって、かなり手前から徒歩で目的地を目指します。
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