南通語について

南通語について

南通語について調べた。

南通語に関する都市伝説

南通語(以下中国語に合わせて南通話という)は中国の他の地方の中国人にとって難解な方言の一つであるという。なんでも南通話は、温州話に次いで2番目に難しい方言であるそうだ。

南通話については他にも、「戦時中、中国軍は暗号の代わりに南通話を用いた」、「南通はかつて犯罪者が流される地であったので中国全土から集まったならず者の言葉が混じり合って南通話ができた」、「南通市内でも一つ川を渡ればコミュニケーション不可能になる場所がある」、などなどの都市伝説的な話は、十数年前、仕事で初めて南通を訪れた時いろんな場所で聞いた。

どれも俄かには信じがたいが、それほど南通話というのは特殊かつ複雑であるということだろう。

南通話の種類

南通話は、現在の市中心で話される狭い意味での南通話を指す場合もあるが、一般的には現在大南通市と呼ばれる行政区域全域で使われる言葉を指す。ここでは後者の広域の大南通市で話される言葉について考える。

そういう意味での南通話は、現在五つの方言(話)に分類するのが定説となっている。

南通地区方言分布図

南通地区方言分布図

少々文字が見にくいが上の地図のように、海如話、南通話(狭義)、金沙話、通東話、沙地話の5分類である。黄色い部分の沙地話が飛び地になっているのが面白い。実はこれが方言の成立を考える際に大きなヒントになる。順番に考えていこう。

南通話、海如話、沙地話

大南通市は、おおざっぱに二つの平行四辺形、一つの台形を合わせたような形になっている。以下この図を使う。とりあえず(狭義の)南通話がすでにあるという時点からスタートしよう。下図の青い部分である。

南通話(狭義)

青い部分→南通話(狭義)

南通は中国でも遅れた地域であるから、上図灰色の部分には人や文化が流入してくる。その経路は、大きく2方向から、つまり、1.今の揚州方面から(下図緑矢印)、2.長江を渡って江南地方から(下図黄色矢印)、であったと考えられる。

2方向から南通へ

揚州、江南からの人と文化の流れ

二つの流れが南通の中心で出会い、海如話、沙地話として大南通をまず二分する。

この二つ流れというのは下の大きな地図でみれば一目瞭然だが、いわゆる官話と呉話という大きな流れである。

官話というのは中国で歴史上行政の中心で正式に使われてきた言葉で、時代によって違いはある。南通に入って来たのは南京、揚州地方の官話ということになる。呉語というのはいわゆる呉文化の言葉である。

官話と呉話のフロンティア南通

官話と呉話のフロンティアとしての南通

大陸の他の地域では、官話と南方方言の境は長江となっている。が、河口部の南通では呉文化の圧力が強く長江を越えてきたということが言えるのかもしれない。

このことが南通話を複雑にした第一の原因。

金沙話、通東話

そして南通語をさらに複雑にしているのは、残る二つの金沙語と通東話である。この二つの言葉は南通語(狭義)から発して、官話(海如話)と呉話(沙地話)の間隙にちょうど楔を打ち込むかのように進んだかのように見える。

金沙話、通東話の生成

金沙話、通東話の生成

官話と呉話の浸食を受けながらも、原南通人が大海へ向け東進しその過程で周辺の文化と混じり合いつつ金沙話、通東話を生み出していったのだろうか。

第二の要因

実は上のことは間違いである。実際よく見ると、南通話の東進は、下図の点線矢印の方向、海如話と沙地話の境界に楔を打ちこむ形ではなく、真東の方向に、つまり沙地話の中を突っ切るように進んだ。それゆえにこそ、最初に述べたように沙地話の用いられる地域が二つに分離されているのである。これが南通話を複雑化した第二の原因ではないか。

南通話は真東を目指した

南通話は真東を目指した

海如話と沙地話の境界を進んだのであれば、南通話は3分類あるいは多くとも4分類に落ち着いたのはずである。それが真東に東進したために、1.南通話に沙地話と海如話が影響を及ぼして成った金沙話、東進が進んだ地域では海如話の地域からは離れていくため、2.南通話と沙地話の合いの子のような通東話が生まれたでのはないだろうか。

南通5方言

大南通市の5方言

もっともらしい解説

南通話の東進

すでに先の地図に示しておいたが、南通話東進の終着点である啓東に吕四という街がある。

南通は運河の街であるが、南通初の運河を通吕運河という。これが現在南通の市中心と吕四を直線で結んでいる。全体が開通したのは14世紀のようであるが、その大部分、現在の通州から吕四に至る主要な部分は宋代11世紀に開通していたようだ。

運河の建設にあたっての大きな人の移動があったに違いない。さらに運河開通による周辺地域の繁栄などが新しい文化圏、さらには方言を作り出した、と考えたい。

外海へ通じる呂四の水門

外海へ通じる呂四の水門

南通語の謎

そして最後まで残るのが、そもそもの南通話(青い部分)がどこから来たかということである。これについては冒頭の”全国のならず者”の言葉が集まってできたという都市伝説が、当たらずとも遠からずといえるのではないかと思っている。

6、7世紀ごろ南通は島であった。

南通が島であった頃

南通博物館南通成陸ビデオから(赤い☆は如東の国清寺)

千数百年前からつい200年前ぐらいまで、主として長江の流れと地殻変動とが相まって現大南通のある付近の地域には大きな地形変化が起こり続けた。

ちなみに、上の地図の赤い☆の部分は以前「入唐求法巡礼行記」で有名な円仁(794-864年)が上陸後最初に滞在した如東の国清寺の場所である。

南通市如東の国清寺
南通市如東の国清寺は遣唐使僧「円仁」が中国に上陸し始めて宿を求めたお寺として知られています。『入唐求法巡礼行記』というのは彼の書いた旅行記。確か高校の教科書で習ったような…。

かつて長江河口部には、おそらく数十年単位で海岸線が大きく動き、あるいは新しい島が生まれたり、あるいは没したりという変化があった。そしてそういった地域では塩業が盛んであった。というより他の生産活動は難しかった。そんな場所に、各地から塩作りのためにさまざまな人が集まった。塩作りで一儲けできるということで、Gold rush ならぬ Salt rush で人が集まる時代があったのかもしれない。

現在の南通話はかつて塩作りのために各地から集まった人々が作り上げたものという想像ができる。方々から集まって来た人たちの混合語という意味では、冒頭の都市伝説も捨てたものではないが、犯罪を犯した流人の言葉というわけではないだろう。以上、多少妄想も加えて南通語について整理してみた。

ともあれ、同じく難解といわれる常熟語と比較しても、一筋縄ではいかないというのが南通語の印象である。

常熟語について
方言という言葉は日中共通だが、中国における方言は日本人の思うところの方言とはかなり異なる。常熟方言、南通方言というより常熟語、南通語といった方が近い。通常中国の方言は普通語(標準語)とは同じ言語とは思えない程度に違う。

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