「荒波を渡り尽くせば兄弟あり、相逢うて一笑恩讐ほろぶ」
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提三义塔 鲁迅
魯迅の「三義塔に題す」という詩の一節です。「避けられない災難や苦労を乗り越えてこそ真の友愛が生まれる。たとえお互い憎みあっていても、私たちはもとより兄弟である。実際に会ってにっこり笑えば即座に長年の恨みも消えてしまうであろう。」というような意味だそうです。「三義塔」は現在も私の故郷の近く、大阪府豊中市にあります。先の一節は魯迅が一人の日本人に送った詩の一部。その日本人の名は西村真琴といいます。
西村真琴博士は、北海道でマリモの研究をする植物学者でした。49歳の時、中国北方で満州事変が、翌年には上海事変が起こります。日本が戦争へ向かう、そんな時代でした。西村教授は多くの中国民間人が死傷したことを知るや否や、医療援助団を組織し中国に渡り、医療援助活動を展開します。
救援活動が一段落し帰国する時、上海三義で傷ついて飛べなくなった鳩を見つけます。西村はこの鳩を中日友好の証とすべく、日本に連れ帰ります。彼は、鳩の傷が癒えるのを待ち中国に返そうと考えたのです。鳩には三義という名前をつけました。

三義塔と碑文(大阪府豊中市)
しかし、ある日、鳩は不意にイタチに襲われ死んでしまいます。彼は嘆き自宅の庭に鳩の墓を建て、魯迅に手紙を書きました。鳩は死んでしまったが、かわって自分が日中関係の修復のため努力する、と。魯迅がこれに答えて西村に送った詩の最後の句が冒頭の“相逢一笑泯恩仇”という言葉です。
以下、私的なことを書きます。私の名前は「真琴」と言います。西村真琴は1956年1月に亡くなっており、ちょうどこの1年後の同日、私はやはり大阪府で生を受けました。父は西村教授の名にちなみ私の名をつけたということです。
輪廻転生など、もちろん私自身は信じるわけでもありませんが、なにかのご縁のようなものを感じつつ生きてきました。47歳の時、たまたま中国関連の仕事に携わるようになり、以来、今日に至るまで中国との縁は切れていません。
(さらに付け足しをすれば、水戸黄門を演じられたことでも有名な俳優の西村晃さんは、西村真琴のお子さんです。)
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