龍門へ
上の写真では、ちょうど中心あたりに、金印の見つかった石寨山遺跡がある。
実は81年、司馬さんの上った羅漢崖から、さらに小一時間登ったところに龍門がある。石段の角度はさらにきつくなり、崖に這いつくばるような形につけられた道を登っていくと、上の滇池の絶景が広がる。司馬遼太郎の見たかった風景を見る。私にとってこんな贅沢はない。
古代の人々が、いったいどのような気持ちでこの湖を眺めていたのか。しばし贅沢な気分にひたる。
といっても、周囲は人が多くやたらとざわついている。
河姆渡遺跡
話は飛ぶが、寧波郊外の余姚の河姆渡遺跡を見に行った時のことを思い出した。
「街道をゆく」中国・江南のみち編で、同行の森氏が、列車で寧波から余姚駅に近づく列車から、当時は発掘されまもない河姆渡遺跡を探すくだりがある。
「河姆渡遺跡は、遠すぎてここからは見えません」
「見えへんかってもええのです」
と、森さんは、張和平さんのにが手とする方言で答えた。ともかくも、河姆渡という、すくなくとも六千年、― 稲作遺跡としては世界最古 ― 稲を栽培して暮らしていた文化が、どういう山川草木のなかで成立したかというかすかな想像ぐらいは、車窓からの遠望でも可能なのである。
私がこの余姚県の河姆渡遺跡の発掘についてややくわしく知ったのは『人民中国』という雑誌の一九七八年三月号によってであった。……
「街道をゆく」中国・江南のみち から
「見えへんかってもええのです」
と、森さんは、張和平さんのにが手とする方言で答えた。ともかくも、河姆渡という、すくなくとも六千年、― 稲作遺跡としては世界最古 ― 稲を栽培して暮らしていた文化が、どういう山川草木のなかで成立したかというかすかな想像ぐらいは、車窓からの遠望でも可能なのである。
私がこの余姚県の河姆渡遺跡の発掘についてややくわしく知ったのは『人民中国』という雑誌の一九七八年三月号によってであった。……
「街道をゆく」中国・江南のみち から
花市場から睡美人
下山はバスであっという間であった。地下鉄で移動、巨大な花卉市場をみてから斗南湿地へ向かう。ここからは西山の全景が見える。西山は睡美人山と通称されるように、美女が横たわったように見える(らしい)。
ただ、美女のように見えるのは場所によるらしく、この場所からはどこが頭やら、どこが胸やら判別できない。地元の人と思われる釣り人に聞いてみると、丁寧に指さして教えてくれるが、それでもよくわからない。
想像力が欠如しているせいで、結局、眠れる美女にはお目にかかることができなかった。そのあたりは次回また、ということで、滇池のほとりの夕暮れの風景が、今回の旅のラストシーンとなった。

滇池東岸から西山を望む
遠くに京都の東山のような山が紫にかすんで横たわっているが、(李)先生は、土地ではあの山を睡美人とよんでいる、といわれた。
「美人が眠っているように見えるでしょう」
という。そういえば、ながながと胸のふくらみから顔までが、美人のシルエットのように見える。
「髪を、滇池に垂らしているのです」
と、李先生はいわれた。もっとも滇池の水景はまだ見えない。
「あの山の正称は、何ですか」
「西山(せいざん)です」
といわれたから、いよいよ、ふとんをかぶって寝ている姿といわれる東山を連想した。
「睡美人というよび名は、ここに先住していたイ族の言いつたえではないでしょうね」ときいてみた。
「美人が眠っているように見えるでしょう」
という。そういえば、ながながと胸のふくらみから顔までが、美人のシルエットのように見える。
「髪を、滇池に垂らしているのです」
と、李先生はいわれた。もっとも滇池の水景はまだ見えない。
「あの山の正称は、何ですか」
「西山(せいざん)です」
といわれたから、いよいよ、ふとんをかぶって寝ている姿といわれる東山を連想した。
「睡美人というよび名は、ここに先住していたイ族の言いつたえではないでしょうね」ときいてみた。
「街道をゆく」蜀と雲南のみち より
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