前回( →こちら )の続きです。
鉱毒地を救おうという運動は野火のように広がった。人々は鉱毒地の農民に同情を寄せ、村々を視察したり、お金や衣類などを寄付したりした。
けれども、鉱毒のおそろしさは実際に被害を受けた者でなくては、本当には分からない。農民たちはその後も東京へ押し出したが、犠牲者を出しただけで終わり、年月とともに世間は鉱毒問題を少しずつ忘れていった。そして、ついには、「足尾銅山の鉱毒問題かね。あれは、田中正造が選挙の票稼ぎを狙って、一人騒いでいるだけさ。」と言うようにまでなってしまったのである。
正造の心は重かった。一身や党派の利害をはなれて、ひたすら正義のために働いているというのに、世間では選挙運動としか思ってくれないのだ。しかも、鉱毒地の農民たちの生活は年ごとに苦しくなり、芋粥も啜れない家や、困り果てた末、家族が散り散りになる家さえも出てきているのである。
「この先、わしはいったい何をしたらよいのだろうか―。」苦しみのため、額に深いしわが刻まれ、ひげの真っ白に変わった正造には、腕を組んで考え込む日々が続いた。そして、一九〇一年(明治三十四年)の秋になって、正造は何事か決心をしたらしく、衆議院に辞表を出して議員をやめたのである。
正造が何のためにそんなことをしたのかは、その年の十二月十日、第十六議会の開院式の当日明らかになった。
「さえ」と「まで」
よく似た副助詞として他に「すら」がありますが、ここでは「さえ」と「まで」だけを比較します。

「さえ」と「まで」
「友だちに(さえ/まで)見放されてしまった。」
Ⅰ「さえ」しか使えない場合:最低限のことを示す時
「雨さえ(×まで)降らなければ行きます」
Ⅱ「まで」しか使えない場合:て形に接続する時
「徹夜してまで(×さえ)チケットを買いたい人がいる。
を押さえておきましょう。
3
その日の午前十一時二十分、開院式に臨んだ明治天皇の馬車が、車輪の音もかろやかに、貴族院議長官舎前の道を左へ曲がったときである。道の両側に居並ぶ人々の間から、黒い木綿の羽織袴に、足袋跣足の老人が、髪を振り乱し、一通の大きな封筒を片手に捧げ持って、「―陛下にお願いがございます。お願いがございます。」と叫びながら走り出た。
馬車のわきを守っていた騎兵が、槍を煌めかして老人を遮ろうとしたが、弾みで馬がどうと倒れる。と、ほとんど同時に、その老人―田中正造の足がもつれて前に転び、そこへ警官が二人走り寄って正造を押さえ付けてしまったのである。
正造は天皇への直訴を決行したのだった。彼の捧げ持っていた封書は、天皇に宛てた直訴状で、足尾銅山の鉱毒で荒れ果てた村々の有様と農民たちの苦しみが、こまごまと記されていた。
正造は不敬罪で捕らえられて、監獄につながれるのはもちろんのこと、裁判次第では、死刑にされるかもしれないと覚悟していた。彼は自分が身を捨てることによって、政府や社会が鉱毒問題に真剣に取り組むようになれば良いと考えて、直訴を決行したのである。
それなのに、正造は警察にたった一晩とめられただけで、翌日は宿屋へ帰された。彼の身を気づかって集まっていた人々に、正造が苦笑いとともにもらしたのは、「役人のやつら、この正造を狂人にしてしまいおった。」という一言であった。
その言葉どおり、政府は、正造を不敬罪で裁判にかける代わりに、狂人としてあつかったのである。狂人が発作を起こして、たまたま天皇の馬車の前へ走り出ただけのことで、まじめに採り上げるようなことではない―政府は、人々にそう思わせようとしたのだった。
正造の狙いは、ものの見事に外されてしまったわけだ。けれども、新聞や雑誌がこの事件を書き立てたので、正造の真意は広く伝わり、政府が足尾銅山の鉱害を見過ごしているのはけしからんとする世論が、次第に強くなってきたのである。
「~次第だ」「~に応じて」「~につけて」
事の顛末を表す「次第」
「偶然」「たまたま」「たまに」
「たまに」vs.「偶然、たまたま」
「たまに」「偶然」「たまたま」
最後に三つを比較します。
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