旅の備忘録(9)横浜散歩

横浜散歩

横浜へ

 8時京成小岩のホテルをチェックアウト。暑さは相変わらずだ。今回の主目的は葛飾山本亭の庭園を見るだけだったので、日帰りでも、実はよかったのだが出発直前、帰路横浜に寄ろうと思った。お目当ては“氷川丸”。来学期の最初の教材「海の中に母がいる」辻邦生の中に辻邦生がフランスに留学する時の描写がかなり出てくる。好んで四等船室に乗ったという。当時の船室など、ちょっと見ておきたいと思った。

 東京は現役時代おそらく仕事で100回以上来ているが、横浜といえば、数えるほどのユーザーと、横浜パシフィコの展示会を見に行く程度。多く見積もっても10回ぐらいしか来ていない。そして横浜に来る時に関しては東京とセットで出張予定も組むことも多く、仕事以外の空き時間もなく、街歩きをした経験もない。一度ゆっくり歩いてみたいと思っていた。

 京成小岩から日暮里に出る。JRに乗り換え、8時47分常磐線で上野へ。ラッシュアワーである。日暮里で降りる人が多いのは初めて知った。上野から9時上野東京ラインで川崎、9時半に川崎から京浜東北線で関内へ向かうと、ようやく、朝のラッシュを抜け出せる。

関内、吉田橋からスタート

 11時前関内到着。真っ先に駅近くにある吉田橋の位置を確認する。1859年の開港時、攘夷派から外国人を守る、という表向きの名目で関所を設けた。それが吉田橋で、馬車道を通って港に出る。日本初の鉄橋吉田橋の内側が“関内”。わかりやすい。馬車道を歩く。吉田橋もそうだったが、おしゃれなストリートという感じで歴史を感じる雰囲気がない。やがて歴史博物館(休館中)、東京海上ビル、富士銀行などの古い建物が現れる。新港埠頭エリアに入りハンマーヘッドで海を見る。カフェで休憩。

赤レンガ倉庫

 赤れんが倉庫まで、ゆっくり歩いても10分もかからない。中身はフードコート、2階雑貨、3階レストランとみごとにリノベーションされている。「街道をゆく」の時代には二棟ある倉庫の間には、廃線となって鉄路が残り、倉庫は使われる形跡のない、廃墟のような雰囲気を醸し出していたのだろう。
 横浜は変わったのだ。
 80年代とは言わないが、せめて、仕事で何度か横浜を訪れていた90年代に、このあたりを歩いてみたかった、とつくづく思う。
2号倉庫の出口付近、目立たないところに赤レンガ倉庫の歴史がパネル表示されている。1989年倉庫としては休眠。90年代後半、港の賑わいと文化を創造する空間へ、とのコンセプトで保存改修工事の開始。2002年横浜トリエンナーレ開催。なるほど。

赤レンガ倉庫

大桟橋埠頭へ

 赤レンガ倉庫をあとにし、大桟橋埠頭に向かう。遠くから見ても気になる形だが、未来的な曲線で構成されたウッドデッキが見事。突端部まで歩けるようだ。けっこう距離があるが行くしかない。暑い。33℃、腹が減った。13時大桟橋の先端に到達。赤れんが倉庫がオモチャのように見える。いきなり案内の音声が流れだす。ふとあたりを見回すと半径100メートル内、人が見えない。こういう日に来るところではないらしい。

大桟橋埠頭

大桟橋埠頭

日米和親条約締結の碑

日米和親条約締結の碑 大桟橋埠頭根元のレストラン、カレーで簡単に昼食をすませ開港資料館へ寄る。オシャレな大桟橋埠頭をみてから、もう司馬遼太郎「街道をゆく」トレースはやめて、自由に歩こうと思った。40年で横浜は完全に変わっている。それでも街道をゆく横浜散歩の項に、開港資料館の横に日米和親条約調印の碑があるとあったので、そのくらいはあるだろうと思ったが見つからない。資料館に入るとき受付のお嬢様方に聞いてもご存じなかった。ただ、このあたり横浜人の良さなのか「調べておきますから、先に館内ご覧ください」と言っていただけた。ここまで何人か、道行く人にちょっとした質問をしてきたが、横浜の人は相手の立場を理解して対応してくれるという印象。
 はたして、石碑はしっかりと資料館前、開港広場として整備された小さな区画の正面にあった。

氷川丸

 氷川丸目的地の氷川丸についたのは16時前。ちょうどよい時間となり乗船。1時間ぐらいかけてじっくり回る。特等船室、三等船室を見ることができた。三等船室は現代中国の大学生の寮の部屋に似ている。なるほど、これは授業で見せるに足る。いいものを見た。氷川丸を出て山下公園を横切って帰路につく。山下公園から見る横浜港がこの夏のラストシーン。左に大埠頭、右にベイブリッジ。新横浜17時51分ひかり653号で帰路。23時前無事帰宅。

 

 

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