日本を学ぶ(12)京都嵐山にて(後編)

日本を学ぶ(橙)
このシリーズは、2017~2024年にかけて、中国の大学の日本語学科上級生向けに行った「日本国家概況」等の授業教案をまとめたものです。

1919年 嵐山

 時代は一気に近代に飛ぶ。1919年4月5日、あいにくの雨の中、嵐山を訪れた人物がいた。周恩来である。周恩来は1898年江蘇省淮安で生まれる。天津の南開中学校で学び、卒業後の1917年に日本に留学した。多感な青年であった周恩来は、日本での留学中、おそらくこのまま学問を続けるよりも、帰国して中国の近代化に尽くしたいと考えるに至ったに違いない。彼が帰国後、近代中国の起点となる五・四運動が起きる。周恩来は学生運動のリーダーとなり、徐々に頭角を現していくのである。

雨中嵐山

 東京で学んでいた周恩来は、帰国の船に乗るために神戸に向かう。途中、京都の嵐山に寄った。21歳の周恩来は、雨の嵐山を散策し何を思ったのであろう。

「雨中嵐山」
雨の中を二度嵐山に遊ぶ 両岸の青き松に いく株かの桜まじる
道の尽きるやひときわ高き山見ゆ 流れ出る泉は緑に映え 石をめぐりて人を照らす
雨濛々として霧深く 陽の光雲間より射して いよいよなまめかし
世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも
――模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば 真にいよいよなまめかし
(訳 蔡子民)
「雨中嵐山」石碑

「雨中嵐山」石碑

 周青年は、嵐山東岸を歩いたのであろう。詩の中で松の並木を過ぎてゆくにつれ、前方に広がる山並みが広がってゆく様が描かれている。やがて、濛々とした心の風景の中に、希望の光を見出すまでの心の動きが伝わってくるようだ。
 周恩来の「雨中嵐山」の石碑は1978年秋、日中平和友好条約締結を記念し建立された。

雨後嵐山

 さて、周恩来にはもう一つ、「雨後嵐山」という詩を作っていた。以下、法政大学名誉教授王敏氏が、周恩来の「雨中嵐山」「雨後嵐山」の二つの詩について、考察されたものを元に、探っていきたい。

雨後嵐山
山中の雨が過ぎ雲はいよいよ暗く 黄昏が近づいてくる
万緑の中の桜ひと群れ 薄紅がなまめかしく、人心を酔わせる
自然美とはかくも人の手によらず 人に束縛されないものか
思い起こせばあの宗教、礼法、古い文芸といった粉飾物は
信仰や情感、美観とやらを説く学説に支配されている
高く登り遠方を望めば 青山は縹渺と拡がり
覆い尽くされた白雲は帯のごとし
稲妻が十ばかり、茫洋と暗い街を射す
このとき島民の心が、景色にあぶり出されるようだ
元老、軍閥、党閥、資本家…… これから「何に依るつもりだ?」

 「雨後嵐山」は、黄昏が近づく時間、風景よりも周恩来の心の中の情景がクローズアップされてくる。周恩来は「雨中嵐山」の場所からは対岸の山道へ向かっている。嵐山の自然に包まれて、宗教や礼法、文芸といった人為的な人の所作から、一段高い無垢の自然の素晴らしさを愛でている。おそらく彼は、高所から嵯峨野の風景、もしかすれば遠く京都市内の風景を望むことができたかもしれない。自然の風景に“あぶり出された”人間社会に思いを馳せ、その後の彼の人生についてある決意をしたのかもしれない。

大悲閣から京都市街を望む

大悲閣から京都市街を望む

角倉了以像

角倉了以

角倉了以(1554-1614年)

現在の「雨中嵐山」の石碑がある場所、つまり周恩来が歩いた場所の近くには、周の時代から一人の日本人の像が立っていた。角倉了以の像である。了以の像には、高瀬川、桂川を始めとする彼の数々の治水事業に関する業績が、記されていた。人の手がつけられていない天然の自然の景観だと思っていた嵐山が、実は過去の人々の努力によって作り上げられてきたことを知った周青年にとって、人の力についてある種のインスピレーションを得たのではないか。

 太古の秦氏の治水工事にまで、思いが及んだかどうかは定かではない。しかし、周恩来が、雨の中、この場所に角倉了以の像を見つけ、雨後、対岸のある角倉了以ゆかりの寺「大悲閣」を訪れてみようと思い立ったのではないか。これが王敏教授の推理である。
大悲閣には以下のような解説の立て札が立っている。

大悲閣(千光寺)、1614年角倉了以によって建立される。了以は我が国の民間貿易の創始者としてベトナムを中心とした南方諸国と交易し、海外文化の輸入に功績を挙げた。国内においては、保津川(桂川上流)、富士川、天竜川、高瀬川などの大小河川を開削し、船運の便益に貢献した。晩年はこの地に隠棲し、開削工事に関係した人々の菩提を弔うため、この寺を建てたと言われている。
「雨後嵐山」石碑

「雨後嵐山」石碑

 2022年4月、王敏教授の研究成果に基づき、日中平和友好条約50周年を記念して、大悲閣の境内に、雨後嵐山の碑が建てられた。
5世紀に大陸から、京都にやってきて日本の国づくりに貢献した秦氏の水利事業、これを引き継ぎ、現在の嵐山の景観をほぼ完成させた江戸時代の角倉了以。20世紀に到り、この地を訪れ帰国後、中国近代化の過程で、その身を捧げ尽くした周恩来。

 徳川初期、角倉了以が初めて架けたという渡月橋に立ち、美しい大自然の風景に身をゆだね、それらを作り出し、保持してきた過去の先達にしばし思いを馳せてみよう。壮大な東アジアの歴史的景観が、そこに凝縮していることが実感できるだろう。

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日本を学ぶ(11)京都嵐山にて(前編)
 京都については、本書でも今度、何度か取り上げていくが、最初に京都文化の基底に近い部分を紹介したい。私たちはまず、京都盆地の西北の頂点にあたる部分、嵯峨野嵐山からスタートする。都江堰は、秦がまだ中国全土を統一する前、関中の一王国に過ぎなかったころに建設されたものである。秦はこのようにもともと治水土木工事を得意としていた

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