やや暗く始まった2005年
2005年の新年を迎えていた。時代の空気は必ずしも良くなかった。失われた10年は、このままでは失われた20年になってしまうぞという識者たちの論評が盛んであった。
この年は4月に福知山線脱線事故が起こり、通勤途上の107名の人名が失われた。日本の電車、地下鉄は世界一、正確に運行されているということが、日本人の自慢の種でもあった。
当時、東京では、毎日地下鉄東西線で通勤していた自分にはそれを実感できた。東京の地下鉄は10秒単位で運行しているかのように正確だった。ある朝、2分程度の遅れを怒り、駅員にかみついているスーツ姿の男性を見た。他の国なら今でも信じられないだろう。
10秒たりとも遅らせてはならない。そういう強迫観念にとらわれ、安全を軽視してしまった若い運転手の運転が福知山の事故の原因だった。過去、日本人が作り上げてきた何かが、崩れていくような出来事であった。
1月29日夜
1月29日土曜日、家の法事で京都自宅に帰っていた。夜、Yの訃報連絡あり。海外事業部スタッフの中では、名古屋のY自宅の最も近くにいた私は、すぐさまYの自宅に向かわされた。新幹線と名鉄、タクシーを乗り継ぎ、到着は21時を過ぎていたかもしれない。私自身、ほとんど事情を呑み込めないまま、友人の死という事実だけを知らされ、とにもかくにもご遺族への元へ駆けつけたということである。幸い、奥様は気丈な方であった。詳細状況が不明であることをよく呑み込まれ、余分な質問もせず、むしろ別の話題を持ち出し、こちらの気詰まり感を和らげていただいているようでもあった。
私が到着してまもなく一人、そしてもう少ししてまた一人、本社生産関係の責任者が到着した。その一人一人に、奥様はていねいにあいさつをされ、落ち着いておられた。Yの家は狭く、玄関を上がったその場所が応接間のようになっており、私は玄関の方を向いて、左にいる奥様とお話をしていた。ちょうど奥様の方向、玄関からは右手方向が台所兼茶の間となっており、中仕切りがなく茶の間の様子が見て取れた。私たちが話をしている間、ずっとYの息子さん、娘さんが食事をされていた。私に背を向けていたので表情まではわからなかったが、静かに、兄妹で話をするでもなく、ただ淡々と食事をされていた。
Yの家族構成について過去、聞いたことがなかった。私はその日、Yの家に行き、初めてYが私と同じ、男の子、女の子のお子さんを持っていること。年代的には私の息子、娘より少し下だろうか、中学生、小学生低学年ぐらいのお子さんがあることを知った。
名鉄名和駅前のビジネスホテルに着いたときには日は変わっていただろう。疲れてはいたが、その日、眠ることはできなかった。
セントレアへ
翌日5時半、ホテル前を出発。社用車で名古屋駅に向かう途中、ご遺族5名を乗せる。難航した航空チケットが取れたという連絡を受ける。ここからは時間との戦いだ。そのまま名古屋旅券センターに直行。旅券センターの職員が出勤すると同時に、ご家族用の臨時パスポート発行を促すという段取りだった。
他の会社スタッフもいたが、私はYのお父さんに付き添っていた。旅券センターが開くまでの間、いろいろな話をした。立派な方だった。もう70歳になられていたろうか。郵便局で67歳まで勤め上げられたそうだ。
「息子には、自分が我慢してうまくいくなら、まずおまえが我慢しろということを教えました。それがいけなかったんでしょうか。」
その時Yと同い年の48歳であった私にはわからなかった。こう言ったYのお父さんは、中国法人の担当者である私をなじり、殴り殺したい気分であっただろう。
「あいつはね、俺の葬式の心配までしとった。優しい子やった。そういった自分が先に死んどる。」
「年取ったら海外なんか、行ったらいかん。そう思ってずいぶん言った。」
そうか、ご家族は反対されていたのだ。単身で海外赴任を命ぜられたサラリーマンの家族のほとんどはそうだろう。人にはそれぞれ家庭の事情というものがある。しかし、海外に行け、地方へ行け、転勤は突如としてやってくる。もちろんルール上は断ることもできる。ただし断ることは、そのままその組織での出世をあきらめることだった。そんな時代である。
「まさか、この年になって息子を引き取りに中国に行くとはね。」
そんなお父様の言葉を残し、昼過ぎ、セントレア空港の出国ゲートに消えていくご家族を見送り、一つ仕事をしたと胸をなでおろした。向こうに着いた後は上海事務所のメンバーがアテンド役を務めてくれる。私は東京に戻り南通工場の体制を整える大切な仕事がある。そのまま、京都の自宅に戻った。帰宅は15時過ぎになっていた。
琵琶湖バレイ
実は娘と約束があった。学校でスキー実習というのがあるそうで、事前に練習をしておきたい。以前からの約束で、その日は近場の琵琶湖バレイに連れていくことになっていた。これは母親では代行できない。出発は遅くなったが、娘と二人で琵琶湖バレイに出かけた。学生時代アイスホッケー部にいたのでスケートは多少心得があったが、スキーは2,3日遊びでやっただけ。上手とは言いがたい。夕方から夜にかけて、まったく初めての小学生と、48歳の初心者同然の二人連れは、いま考えても安全とは言いがたい。しかも私は少なくとも24時間は寝ていない。徹夜は慣れていたので、肉体的には問題なかったが、精神の疲労が過去にないレベルだった。親子でスキーを楽しむというところまでは、さすがにいかなかった。
あの夜、私はぼんやりした意識の中で、この子をケガさせてはならない、しっかり見守ってあげなくてはならない。そのことだけを懸命に考えていたのを覚えている。
1月30日夜、東京行きドリーム号
23時京都駅から深夜バス「ドリーム号」で東京へ向かった。東京行のドリーム号は滋賀県多賀インターで小休止する。雪は本降りになっていた。バスを降り、冷たい空気を吸い込むと、少しの間意識がはっきりしたように感じた。長い長い24時間であった。いろいろなことがあった。しかし、頭の中に残された映像、それは、20年を経た今でも私の脳裏に写真のように焼き付いているものだ。それは、Yの家で私の視野の端にあり、嗚咽をこらえながら、ひたすら食事を続けていた Yの息子さんと娘さんの後姿。そして、昨夜、遅く降り始めた雪の中で、ややへっぴり腰ではあるが、少しは一人で滑れるようになった、娘のスキー姿である。
(続く)
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