昆明飯店
6時過ぎ、ようやく白み始める。曇天。朝シャワーですっきりしようとするも、10分ぐらいでやっと熱水になるありさま。10年ほど前の中国を思いだす。外は20℃、昨日は結局雨にあわなかった。今日も予報は雨だが、実際はどうなんだろう。
8時散歩に出る。ポツポツ来たかと思ったら、けっこう降ってくる。あわてて近場のセブンイレブンに逃げ込み朝食。ホテルの部屋に帰り着く頃には小降りになっている。9時過ぎ、再び出る。今日はイ族の村を探そうと思っているが、とりあえず、観光定番の雲南民俗村からスタートことにする。24年前、学会で来た時も、確か商社の方に最初に案内されたように記憶している。3号線、5号線を乗り継ぎ、雲南民俗村へ。どうも、昨日から体がだるい。つらくはないが、すぐ疲れてしまう感覚が続くなあと思っていたが、ふと気が付く。高度のせいだ。そういえば初めて昆明に来た時も、朝ジョギングに出たら、ずいぶん息が切れたのを思い出した。ここは高地なのだ。
10時、渔户村着。民族村に入る、半額で45元。
イ族の踊りというのを見る。 女性の歌声が高くかわいい。笛の名手らしき男性が出てくる。見事である。鳥の声、自然の声をうまく出している。観光客向けのパフォーマンスとしては、なかなか上出来である。別の場所に毕摩という祖師が大きな張り子の虎の顔の中にいる。イ族の神的存在だろうか?

彝族の踊り(雲南民俗村にて)
その他の少数民族はざっと流して見る程度。なにせ広い。以前来た時の印象と重なるところはみつからない。
それにしても、四方を囲った家のつくりが多い。そういう場所でしか安住できないのが大陸なのだと、日本人であることの幸せを感じる。大陸の人類は、外部のものを信頼できない。おそらく永久に。お人好しの日本人は、外からくるものを、よきにつけ悪しきにつけ、信じてしまうのだ。
13時、園内レストランで昼食。人は少ない。これまた過去の中国を思い出させる味。肥えてしまった舌には合わない。
14時いったん帰路。地下鉄の外壁に静止広告が映っているように見える。最新技術だ。実用化が早い。というか、なんでもとりあえずやってみるという中国のやり方は、ここでも変わらない。15時いったんホテルに帰り、休憩、スマホ充電。16時再び出る。
イ族の村、高橋村そして安流橋
3号線大树营から4号線に乗り換え、羊甫头駅から徒歩で安流桥を目指す。安流橋は「街道をゆく」で司馬遼太郎が絶賛したアーチ橋。二十数年前の情景が、そのまま残っているかどうか。
ここ昆明では1.2号線が南北、3号線が上海の2号線相当する東西を結ぶラインとなる。
スマホ地図の示す安流橋は、どうも街中のビル街を指しており正確ではなさそう。もしかしたら橋そのものがなくなり、開発されビル街になってしまっているのでは、と心配になる。ともあれ、ここ違いないと信じた川沿いの道をずっと歩く。きれいな遊歩道。橋がなくなっていても、この道だけでもいい、と、多くは期待せずに歩く。

安流橋を目指して歩く
付近は、ムクゲの花もよく見る。17時、今日初めて日差しを感じる。そして橋が、
あった!
この後、感動のあまりメモも抜けている。木々の間から突然現れた安流橋の姿には、思わず息をのんだ。安流橋は高橋村の出口にあたる。橋を渡り階段を上り、「街道をゆく」にあるように、やや高台となった場所に広がる高橋村に入る。かつてイ族が住んでいたであろう、そし司馬遼太郎が散策したであろう、レンガ作りの家々の小路を歩く。レンガの家は「禁止使用」という張り紙が多く、ところどころにかろうじて人が住んでいるような風情である。レンガの家から、たまたま出てきた人に、ワイド版「街道をゆく」の本の中の写真を見せて聞いてみるが、地方から越してきたばかりなので写真の場所がどこかは、わからないという。

かつてのイ族の村と思しき場所
「イ族?そういう人もいるでしょうね。昔から住んでる人達が、もうすぐそこの寺でダンスするからきいてみたら?」と言われた。
ダンスといってもイ族のダンスではなく、いわゆる全国共通の”広場ダンス”だろうから、待たずに帰ることにした。
人の住んでいる家は少ない。この場所、そう遠くない将来、取り壊されるだろう。そう考えると、辛うじて間に合ったという気分がつのり、満足した。今年、昆明に来てよかった。
地下鉄の駅への帰り道。花束をポリバケツに差し込み、一束一元で売ってる女の子がいた。妙に安い。買えばよかったかなと、あとでふと思った。18時半羊甫头駅から帰路につく。気が付くと今日は3万歩に迫っている。19時帰ホテル。
街道をゆく 蜀と雲南のみち 司馬遼太郎
2001年の初めての中国行き。飛行機の中で読もうと、仕事の書類以外に、なにげなく司馬遼太郎「街道をゆく」蜀と雲南のみち編、を携えて旅立った。結果的に昆明行きは、私にとって、その後の中国とのかかわりのきっかけとなったと共に、「街道をゆく」との出会いともなった。
2001年の昆明訪問では、さすがに自由な行動はできず、商社マンに近場の名所につれて行ってもらった、先の民俗村。それに学会のポストカンファレンスツアーで、他の学会関係者と入った石林が記憶に残っている。今回も、過去の思い出をたどってまず民俗村に行ってみたが、一般的な観光地でなく、かつ一番行きたかったところ、かつてイ族の村であった高橋村、その村はずれの安流橋にたどり着くことができたことは大きな収穫であった。
2004年以降の中国関連の仕事、2012年以降の中国滞在のきっかけがこの昆明行きであったのは確か。そして、無趣味な自分の唯一の趣味が、「街道をゆく」で司馬遼太郎が訪れた場所をたどるように、日本、中国の各地を旅することになった。これもまた、この時の昆明行き以来のことである。
アーチ。弧状の架構物。この石をくさび形に組み積んだアーチ橋の弧は、円を真っ二つにした半円でまことにうつくしい。(中略)
雲南省という、近世になってはじめて中国文化が及んだ省の、しかも少数民族の村の小川にかかっている石造アーチ橋が、長崎の眼鏡橋に匹敵するか、あるいはそれ以上に美しく、小ぶりながらも一種奇妙な豪宕さをもちつつ真半円空間をつくっているのである。
小川ながら、中洲がある。川の岸から中洲まで丸木橋がかかっていて、中洲側で中年夫人が懸命に洗濯している。そのそばからあらためて石橋を見あげてみたが、いよいよ美しい。
『街道をゆく』蜀雲南のみち 司馬遼太郎 より




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