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明治百年
今年は2025年、この文章が書かれてから55年。くしくも昭和百年に当たります。ただ、日本人は、そして人類は、いまだ新しい価値観を見いだせていないように思います。
勤勉の徳によって、われわれが期待するのは、繫栄である。繁栄が明治百年の日本の大事な目標であった。そしてその繁栄というのは、物質の豊かさを意味する。しかも近代人にとって物質は、単なる自然物ではない。多くの人間の意志によって作られた物質なのである。今日、われらの周囲にある物質は、ほとんど自然のものではない。われらが今日価値を置く物質、テレビ、電機製品、自動車、すべて、われらの意思がつくり出し、われわれに奉仕する物質なのである。ここでは、人為的なものが、自然なものより喜ばれる。
このような勤勉、繁栄の価値とならんで、近代人にとって大きな価値は進歩である。だんだんこの世がよくなってゆく。物質は豊かになり、人間の智恵は増進してゆき、世の中はだんだん住みやすくなる。それが、近代人の信念というより、信仰でもあった。それゆえ、ここでは変化することが価値であり、スピードが価値であった。変化することが価値であるならば、否定が価値であり、どこへという問いもなく、ただスピードを出すことのみが価値とされるのである。
私は過去百年間、日本人をささえた価値観は、そういう勤勉―繁栄―進歩という価値観であったと思う。このような価値観は、日本人全体の価値観であり、右と左とを問わないのである。むしろ進歩政党ほど、強くこのような価値観の上に立っている。しかしこのような価値観は、現在、大いに動揺している。むしろ、このような価値観の上に育った文明そのものが、このような価値観に対して懐疑を投げるのである。
今日、完全に機械の時代である。多くの単純労働において、機械は人間より、はるか多くの能力を能力を発揮することは、すでに十九世紀において明らかになった。そしてやがて複雑な労働すら、機械は人間にかわってすることが出来るようになった。そして最後に、頭脳労働においてすら機械は、人間に優るようになった。勤勉は唯一絶対の価値であることを失うのである。
ただスピードを出すことのみが価値とされる
「のみ」と「だけ」
「だけ」と「のみ」は同じ意味で用いられますが、「のみ」は比較的「硬い文」でしか使えません。
- お子様(〇だけ/〇のみ)、ご入場可能です。
- 子ども(〇だけ/△のみ)、入れるんだ!
「のみ」「だけ」「に限り」「にすぎない」

「のみ」「に限り」「にすぎない」まとめ(例文付き全体まとめ)
能力を発揮することは、すでに十九世紀において明らかになった
「もはや」と「すでに」

「もはや」「すでに」使い方のまとめ
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