中国5000日(18)学天則Ⅱ

三義塚
これまでの話もそうですが、こちらに書いていることは事実とは異なる部分が多数あります。特に登場する人物に関しては特定の人物を指すことはありません。念のため。

提三義塔 魯迅

以下が、魯迅が西村真琴に送ったという「提三義塔」である。

奔霆飞熛歼人子,败井颓垣剩饿鸠。(飛行機の爆弾や銃火が人民を殺傷し、井戸や垣根を破り崩して街を荒廃させ、一羽の飢えた鳩を残した。)

偶值大心离火宅,终遗高塔念瀛洲。(たまたまその鳩は大きな心に遭い、火に包まれた家を離れた。しかし終には日本で息絶え三義塚となり、気高い心を遺した。)

精禽梦觉仍衔石,斗士诚坚共抗流。(死せる鳩は眠りから覚め、古伝説にいう精衛のご如く、両国を隔てる東海を小石をくわえて埋めんとし、あなたと私は誠心固く、時流に抗って闘う。)

度尽劫波兄弟在,相逢一笑泯恩仇。(隔たりは遥かに遠いが、苦難を越え長い年月を渡り尽くせば、我々もとより兄弟ではないか。遭って笑えば、深い恨みも消え去るだろう。)

西村真琴 

 なるほど、父親の言っていた豊中の議員さんとは、この人のことだったのか。その人物、西村真琴の作った三義塚に、偶然に出くわしたということからして、何やら因縁めいたものを感じずにはいられなかった。
 西村真琴という人物について調べてみると、上海事変以後も日本によって蹂躙された中国の民間人への関心を失わず、多くの戦争孤児を受け入れたという。晩年も保育の世界で活躍した。西村によって日本に引き取られた戦争孤児の二世三世たちは,西村への感謝を忘れず現在でも三義塚を訪れ花を手向けてゆくという。

 全国的な知名度こそ低いが、地元では当時から、あの魯迅と交流のあった名士としてかなり有名だったようだ。そのような人物であれば、彼にあやかろうと、死後ちょうど一年して生まれた我が子に真琴と名付けても確かに不思議ではない。
 時期も時期、中国に、そして中国人に打ちのめされて会社を追い出されそうになっていた(もちろんそれは自己責任ではあるが)私にとって、ある意味助け舟となった新事実であった。
気に入ったのは提三義塔の最後の二句。

苦難を越え長い年月を渡り尽くせば、我々もとより兄弟ではないか。遭って笑えば、深い恨みも消え去るだろう。
日本と中国はもとより兄弟。いがみ合って何になる。自分は小さい人間であった…とか。

切れていた糸がつながる…?

 なるほど、そういうことですね。それで憎み合って避けるより、むしろ新しい出会いを求めて中国へ行ったのですね。そして未来の中国を担う若者たちの教育に余生を捧げようとしたのですね。そう思っていただけると嬉しい。そういう理解は一面正しい。

 ここまで書いて来たことは、前置きに記してある通り、人様の,特に存命の人については架空の内容が多い。しかし、私個人に関する記述は,念入りに真実のみを書き続けている。私が西村真琴について知った経緯や、西村真琴の生き様に興味をもち、彼の生き様を手本とし、再び中国へ向かったこともすべて真実である。そういうと一応筋が通って、説得力はある。
 しかし、人間というのは何が何でも自分を正当化しようとする生き物だ。
今になって落ち着いて考えてみると、当時、私は自分に上のように信じ込ませたようだ。
私はそれで良かったと思っている。当時私の話をもっともよく聞いてくれていたであろう、精神科医のT医師も「そういう運命を感じるのであれば、一度海外に出てみれば一気に良くなる可能性もあるかもしれませんね」と私を後押ししてくれた。

真実はいつも闇の中

 事実は一つだが、真実は一つとは限らない。西村真琴の生まれ変わりとして、新たな日中友好の架け橋となるべく中国へ旅立ったのも真実。そして…、五十を超えて会社で見放され、再起の糸口も見当たらずやる気も失せ、鬱病の苦しみからもしかしたら抜け出せるかもしれないと思い、日本から逃げ出そうとしたのもおそらく真実である。

学天則

 1932年上海事変の4年前、京都で昭和天皇御大礼記念博覧会が開催された。その展示物として西村真琴は「学天則」を製作し展示、大好評であったという。学天則は日本初のロボットと言われており、圧縮空気で頭や手を動かすことができた。なによりもその容貌が特徴的。西村は、白人でもなく黒人人でもなく、まして黄色人種でもない、人種の垣根を超えた人類愛を学天則によって表現したという。

大阪市立博物館に展示中の学天則(複製)

大阪市立博物館に展示中の学天則(複製)

 彼の思考は人類愛にとどまらない。生前の彼は動物や植物、生きとし生けるものすべてに、対して等しく愛情をそそぐヒューマニストであった。

 博覧会では注目を集めた学天則は、その後、各地で開催された博覧会に出品された。最後に、売却されドイツに渡ったが、行方不明となる。現地では故障等でうまく作動せず、廃棄されたと考えられている。

(続く)

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 S総経理から突き返された親展封を、ぼんやり見つめていたあの時から4年の間に、私の精神は少しずつ、少しづつ壊れていったのかもしれない。私にとっての“失われた1年”、薬漬けの一年は2011年のことである。そこに到る4年間のことについて、一つ一つの出来事は覚えていても、ほとんどは前後関係があいまいである。やがて忘却のかなたに消えていくにちがいない。完全に消失する前にメモ程度に残しておこう。

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