(続き)
明治維新時、日本、そして漢字使用の本家本元である中国などのアジア諸国は、西洋諸国の技術力に接することで自国の遅れを痛感した。そしてその原因の一つが言語にあると考えた。日本でも、海外のさまざまな制度を学び導入する立場にあった前島密、森有礼らによって漢字廃止、英語国語化論が提唱されたことを前回述べた。
近代化への転換期であったこの時期以外にも、歴史上日本が、言語を含む自国文化に全く自信を失ってしまった時期がある。第二次世界体制敗戦直後である。戦後、再び日本語の非効率に関する論議が再燃する。まずは、日本語を操るスペシャリストとも言うべき文豪からの提案があった。
志賀直哉(1883-1971)の国語フランス語化論
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志賀直哉(1883-1971年)
志賀直哉は明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」などがある。志賀の作品は長編「暗夜行路」を含め、ほとんどが戦前に書かれたものである。戦後は日本ペンクラブの会長をつとめるなど、むしろ文壇の重鎮として若手の育成や、社会問題への意見具申などの領域で活躍した。そんな彼が1946年(昭和21年)、『新国語論』と題した論考を発表し、フランス語国語化説を展開した。要旨は以下のようなものである。
六十年前、森有礼が英語を国語に採用しようとしたことを、この戦争中、たびたび思った。もしそれが実現していたら、どうであったろうと考えた。日本の文化が今よりも遥かに進んでいたであろうことは想像できる。(中略)日本は思い切って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、そのまま国語に採用してはどうかと考えている。それにはフランス語が最もいいのではないかと思う。森有礼の時代では不可能であったろうが、今なら実現可能である。過去に執着せず、我々の利害を超越して子孫の為に英断をすべきだ。外国語のことはよく知らないが、フランスは文化先進国でもり、小説や韻文でも日本と共通のものがあると云われる。それにフランス語は文人によって整備された言葉であるとのことで最適と思う。『新国語論』(要旨)
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晩年の志賀直哉
もし60年前、森有礼の「英語国語化」を実現していたら、戦争にも負けなかったかもしれない、という論調である。日本語を棄てなかったばかりに戦争に負け、国土は荒廃してしまった。いまこそ、子孫繁栄のために日本語を棄てよう。どうせなら世界で最も美しいといわれるフランス語など、どうであろう、ということだ。ただし志賀直哉自身はフランス語に精通していたというわけではないらしい。
彼のフランス語国語化説は、やはり具体的な政策として検討されるには至らなかったが、志賀直哉としては、真面目な提案であったようで、日本有数の名文家である志賀直哉の意外ともいえるこの論説は、言語が国家の文化と教育に果たす役割について再考を促す契機とはなったようだ。
GHQの国語改革(1948年)
1945~1951年、敗戦国日本は連合国軍(GHQ)によって統治された。GHQは日本を民主国家に変貌させるため、日本政府と協力して、農地改革始め、数々の民主化改革を行う。その一つに国語改革があった。
1948年GHQジョン・ペルゼルが「日本語は漢字、平仮名、片仮名の3文字を併用し習得が難しい。そのため識字率が上がりにくい。これが民主化を遅らせる一つの要因だ」と提案、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。
全国一斉識字率テスト
そして識字率調査をした後、識字率の低さを確認の上、日本語のローマ字表記を実行しようとした。その後の経緯については識字率調査に当事者としてからんだ、金田一春彦が「日本語」新版(下)で詳細に述べている。
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金田一春彦(1913-2004年)
国語学者、石黒修、柴田武、金田一春彦らは識字率調査の問題作成、実施に関わった。第一問は平仮名が読めるかどうか、第二問はカタカナが読めるかどうか、と続き最後は新聞の社説を読みその意味が理解できているかどうか、一時間で回答する試験であったようだ。
GHQが日本の戸籍簿から任意に選び、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象として選び受験者とした。試験当日、神奈川県の試験場担当だった金田一は、当日一名の空席を見つける。小田原に住む老婆だった。金田一は全員受験させようと彼女の家まで訪ねていく。驚いた老婆は「私のようなものが行っては、日本の恥になります。私の娘を身代わりに。」と歎願する。大時代的だが、結局それではよろしくないということで、おばあさんは紋付き羽織姿で試験場へ行ったという。 おばあさんは0点かも、という金田一の予想だったが100点満点中5点。名前が「はな」で自分の名だけは書けたので、次のうち「はる」はどれですか、という問題に正答した。
上は金田一の経験談である。ほとんど文盲の人を特例として記憶して話題にてきるぐらい、全国的なテストの結果は良かったという。金田一の表現によると、満点こそ少なかったが、文盲はゼロに近かった。この時のいわゆる文盲率は2.1%という結果になり日本人の識字率が非常に高いことが証明された。
日本語は守られた
柴田武はテスト後に当局に呼び出され、ローマ字化を既定路線としていたペルゼルから識字率が低い結果でないと困ると遠回しに言われたが、柴田は、結果は曲げられないと突っぱねた。こうして日本語のローマ字化案は立ち消えとなった。日本固有の文字体系はそのまま保持され、言語改革の方向性は大きく転換したのである。
戦後のGHQによる試みは、結果的に日本人の勤勉さ、そして日本語の多様性と実用性を証明し、日本語を守ったエピソード、として長く語り継がれることとなるだろう。
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