空海の人生(続き)
806年、空海は日本に帰国する。31歳の若さではあったが、インド由来の密教の正式な後継者として日本に戻ってきたわけである。日本を離れてわずか2年しかたっていない。本来留学僧は20年間中国で学ぶルールであったものを、空海は学ぶべきものは学び終えた、とでも言わんばかりに2年で帰ってきた。そのような事情から、都に入ることを許されるまでには、機を待つ必要があった。
その点最澄は立場が違った。留学というより、視察旅行のようなもの。8か月の滞在から帰国し入京た最澄は、桓武天皇の期待に応え指導的な立場で宗教活動を行っていた。奈良仏教勢力への対抗上、桓武天皇は最澄に天台宗の移入を認め、さらに最澄の持ち帰った密教経典にも興味を示した。ところが、最澄個人は密教の重要性をさほど認識しておらず、彼の持ち帰った“密教”は空海のそれに比べれば、はなはだ不完全なものであった。
最澄は、上下の立場にこだわらず、空海に教えを請い二人の交流が始まる。(ただし最終的に最澄と空海は、考え方の違いから決別することになる)
空海 入京
空海が、入京するのは810年、薬子の乱と呼ばれる皇室の争いごとがきっかけである。桓武天皇の死後、平城天皇が天皇となるが、平城はいったん嵯峨天皇に皇位を譲った後、藤原薬子とともに、再び権力の座を取り戻そうとしたのである。嵯峨 vs.平城の争いの中で、空海は嵯峨天皇に味方し、鎮護国家の大祈祷を行った。このあたりをきっかけに、空海は中央で目覚ましい活躍を遂げていくことになる。
816年には、紀伊山中に、前述の高野山を開き、真言密教の拠点とした。今でも空海が眠るこの地は、「聖地」として多くの人々が訪れる。
彼の業績は宗教に限らない。821年、故郷讃岐のため池である満濃池(まんのういけ)の改修を指揮する。おそらく土木技術も大陸で学んだのであろう。アーチ型堤防など、当時としては日本初の最新工法を用い工事を完成させた。
823年正月には、太政官符により平安京内に東寺を賜り、真言密教の道場とした。
また、828年庶民のための教育施設として「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」を設立し、貴族だけでなく一般庶民にも学びの場を提供した。空海は宗教家であると同時に、教育者でもあったのだ。
晩年の空海は、社会における仏教の役割を説き続け、国家と仏教の一体化を目指した。その思想は、単なる救済ではなく、現世における人々の幸福と成長を重視していたのである。こうして空海は日本仏教を革新し、多くの弟子を育てた。
空海入定
835年(承和2年)、空海は高野山で入定つまり、永遠の瞑想に入った。その死は彼自身が予見していたと言われており、最後まで神秘的な存在であった。死の六日前、空海は高弟をあつめ、死期がせまったことを告げ、死後「兜率天に往生し、弥勒慈尊の音前に侍るべし」と遺言する。
兜率天にあって自分は微雲のあいだから地上をのぞき、そなたたちのあり方をよく観察している。さらには、五十六億七千万年ののち、自分はかならず弥勒菩薩とともにこの世に下り、世界の変容を見るであろう。そう語ったという。
3月21日、空海は入定する。弟子の実慧は、師匠の死を表現して、「薪尽き、火滅す。行年六十二。嗚呼悲しい哉」と書いている。われわれ人間は、薪として存在している。燃えている状態が生命であり、火滅すれば灰にすぎない。薪尽き火滅した空海は日本仏教の巨星として語り継がれることになる。
お大師さん信仰
さて、仏教では、一般的に僧侶その人を崇拝の対象とすることは少ない。多くの僧侶は我々と同じ修業中の身分であり、ともに仏への道を歩む者ということになる。日本の宗教史を概観すれば、空海は、唯一信仰の対象となった人と言える。それは文字通り彼が「即身成仏」して、仏になりおおせたということからも、そう言える。
現実に人々は、高野山で祈る時、四国霊場でお遍路さんとして巡礼の旅をする時、真言密教という難解なものを理解して、あるいは理解しようとしているのではなく、空海、お大師様とともにありたいという心でその場にいるのである。いろいろな意味で、我々が期待するのは、遠く離れたところにいる神聖な存在というよりも、人間としての空海である。空海を人間としてとらえる時に、“親しみ”の心が湧いてくる。そういう仏となることを、空海自身が望んでいたかもしれない。
人間として死に、仏となり、人々の信仰の対象にまでなった唯一無二の宗教人、それこそが、空海その人ではないだろうか。
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