神話、伝説上の人物は除外しよう。その人の生きた足跡が、ある程度正確に辿れるという前提で、日本史における天才を数人挙げてくださいといえば、かなりの確率で空海がその中に入るのではないか。さらに、世界史上、天才と言われた人物の中で、一般民衆から、もっとも親しみをもって敬愛されている人物、その答えもまた空海ではないだろうか。
現在、空海ゆかりの地、あるいは空海、お大師様と直接触れ合える場所と言ってもよい。そんな場所は、関西を中心にいくつもある。
現代に生きる空海
高野山
空海が開き、晩年を過ごした高野山は、大阪から鉄道で2時間少々、紀伊山地の標高800mの高地にある。高野山は、空海の寺金剛峰寺を中心とする宗教都市である。奥の院の長い参道には、日本史上有名な人物の墓が並ぶ。参道を進んでゆくと、奥の院のさらに奥、最も神聖で静謐な空間がわれわれを迎えてくれる。そこでは、お大師様が今日においてもなお、奥の院廟所の地下石室において座り続け、人々のために祈り続けているという。常識では信じられなくても、そのことを否定しようとする空気は、高野山にも、仏教界にも、そして高野山を訪れる人々の間にはない。
高野山奥の院という、独特の宗教空間を歩いて、奥の院の聖域、燈籠堂に行き着いた時、空海が生きているということに、なんら違和感を感じなくなる。その地に到れば、身を引き締め、お大師様とともに、祈りを捧げようという気持ちになるのである。
京都東寺
東寺は現在のJR京都駅から至近距離にある。東寺五重塔は、現在においても京都を代表する風景の一つである。50歳の時、空海は平安京内の東寺を朝廷から賜り、真言密教の道場にした。金堂には真言密教の神髄ともいえる「立体曼荼羅」がある。そんな東寺も京都市民にとっては弘法市の開かれる場所というイメージが強い。空海の月命日にあたる毎月二十一日には「弘法市」が境内で催され、骨とう品、日用品、などを売る露店が所狭しと並ぶ。宗教の場、という堅苦しさは見られない。
四国八十八か所
空海の生まれ故郷の讃岐(香川県)や、高野山のある和歌山県では、空海、弘法大師という名よりも“お大師さん”という親しみのある名の方が通りがよい。四国八十八か所を巡るお遍路さんは毎年10万~30万人。老若男女が、さまざまの思いをもって、巡礼の旅をすると言われる。お遍路さんは「同行二人(どうぎょうににん)」という合言葉を、笠や所持品に書き付けて旅をする。同行二人とは、お大師様と二人で旅をしている、つまり、巡業の旅をする一人一人に空海その人が、付き添ってともに巡礼の旅をしてくれているという意味である。
「弘法も筆の誤り」「弘法筆を選ばず」
空海に関連する諺である。空海は嵯峨天皇・橘逸勢と並ぶ、平安時代の三筆と言われた。三筆とは、日本の書道史上で最も優れた3名という意味である。時代によりそれぞれの三筆が存在するが、平安時代初期の三筆の一人の中でも、現代にことわざとして言い伝えられているのは空海のみである。
空海の生きた時代背景
さて、そのような空海の生きた時代と、彼の人生を振り返ってみよう。まず平安初期の日本の仏教事情について確認してみよう。
平安遷都
聖徳太子(574-622年)の時代から、奈良時代(710-794年)にかけ、仏教は日本という国を建設するための思想的支柱のような存在であった。鎮護国家という言葉が示すように、国を守り治めるための思想が仏教であった。とはいえ、一般庶民の下々に到るまで、仏教の考えが浸透していたかというと、そうではない。仏教は国の上層部のものであり、それを学ぶ人、その恩恵を受ける人も一握りの人々に限られていたというのが本当のところであろう。
国を治め維持するための仏教であるが、その仏教に転機が訪れる。794年に桓武天皇によって、奈良平城京から京都、平安京に遷都されたことだ。この理由はいくつかあるが、第一の理由と考えられているのが、仏教勢力が強くなりすぎた、というものがある。奈良時代の代表的天皇といえば聖武天皇、彼の治世時、大規模な疫病が発生した。疫病を抑えるため各地に国分寺を建て、仏教を国家鎮護のための重要な役割を担わせた。大仏で有名な東大寺の建立も彼の時代である。ただ、天皇が仏教を重視しすぎたあまり、仏教寺院は天皇に対して強い立場で意見を言えるようになる。
奈良の都には内部に数々の寺院が建立され、南都六宗*の僧侶たちの政治への影響力が強くなりすぎた。これを嫌った桓武天皇が京都に遷都した。桓武の意図がわかるのは、遷都の際、仏教寺院が京都へ移ることは許さなかったということからもわかる。
(*南都六宗:平城京を中心に栄えた日本仏教の6つの宗派の総称。三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗の六つ。奈良仏教と総称し、後述の平安仏教〔最澄の天台宗、空海の真言宗〕と対比される)
平安仏教
桓武天皇は、遷都を機に旧来の仏教勢力を一掃し、刷新したかったのかもしれない。新たな宗教秩序を構築するため、遣唐使として大唐国に派遣された僧が、最澄であり、空海であった。朝廷の期待通り、最澄は帰国後、平安京の鬼門の方角にあたる比叡山延暦寺を中心に活動し、以後、比叡山は日本仏教の中心地として多くの高名な僧侶を生み出していく。
同じ遣唐使船で、大陸に渡った最澄と空海ではあったが、その地位立場は天と地ほどの差があった。最澄は、渡航時、すでに朝廷から比叡山を賜っていた官僧であったが、空海は一介の留学僧であった。
大陸で密教の奥義を学んだ空海は、帰国後、実力で平安仏教の力を最澄と二分する立場に、のし上がっていく。最澄の人生の多くの時間が、奈良仏教との論争に費やされざるを得なかったのに対し、空海の目は、民衆にも向けられていた。
平安時代、仏教は以前一握りの高貴な地位の人々に独占されていた。一般民衆にはすがるものがなかった。たとえばそんな人々に空海は、誰もが“即身成仏”できるのだと説いた。成仏とは“仏に成る”ということで、救いを意味する。それまで成仏するとは、死んだ後、生前の行いがよかったものが選ばれて仏になれる、というものであったが、空海は“即身”すなわち、生きている今そのまま“仏”になれると説いた。辛く長い修行を必要としないという彼の考え方は、日本史上において、初めて宗教の恩恵を人民のレベルに押し下げたと言ってもよい。
最澄よりは、身分的に低い位置からスタートした空海も、帰国後、高野山に金剛峰寺を賜り、また嵯峨天皇から平安京の東寺をさずかった。結果的に平安仏教といえば最澄の天台宗と空海の真言宗、という二人の巨人による仏教体系が主流となった。
空海の人生
さて、それではそんな空海の生涯をその誕生からたどってみよう。
774年(宝亀5年)、空海は讃岐国(現在の香川県)の比較的裕福な家に生まれた。幼名を真魚(まお)といった。幼少期から聡明で、経典や漢詩に親しんでいたという。可能性の高い説の一つに、空海の家は、日本古来の蝦夷つまり、渡来系の家系ではなく縄文系ではなかったかという意見がある。最澄が、渡来系を自称していたのとちょうど対極なのである。
15歳で都に上り、大学で儒教や文学を学ぶ。しかし、突如として学問の道から身を引き、仏教の修行に没頭するようになる。ここから、彼の人生は大きく舵を切ることになる。いわゆる一般的な出世の道を捨て、山野を流浪する私度僧たちの世界に飛び込んだともいわれる。
804年遣唐使として唐に渡るまでの空海の実際の生活は謎であるが、この流浪の期間に「即身成仏」の思想に目覚め、室戸岬の「御厨人窟(みくろど)」で悟りを開いたという伝説が残るのもこの時期と言われている。とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできて、悟りを開いたという伝説は有名である。
804年(延暦23年)、空海は遣唐使として唐へ渡る機会を得る。当時、唐は世界の文化の中心地であり、最先端の仏教もここで花開いていた。長安に到着した語学の天才でもある空海は、渡航後、3か月で密教を学ぶために必要な梵語をマスターし満を持して真言密教の教えを授かるために名僧・恵果の元へ出向く。
恵果との出会い。
長安での空海の生活は、青龍寺の恵果との出会いでクライマックスを迎える。恵果は空海に出会ってから、わずか2か月の間に密教最高位の阿闍梨の位を空海に譲り渡している。恵果は60歳でありこのとき病の床にあった。すでに3年前から千人いたという弟子の中から7人を選抜し、法位を譲るための灌頂までは済ませていた。しかし最後の灌頂にいたっていなかった。そこに、空海が割って入ったことになる。
恵果から阿闍梨位を譲位されることは、密教の正当後継者になることで、空海は大日如来から数えて第8代の祖師になった。恵果が青龍寺に入ってから、この地は本格的な密教の道場として栄えたが、空海の後、845年には唐の皇帝武宗の命による廃仏令により、青龍寺そのものはいったん破壊された。まさに空海は、きわどいタイミングで密教をまるごと日本へ持ち出したと言える。
(後編へ続く)
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