日本を学ぶ(11)京都嵐山にて(前編)

日本を学ぶ
このシリーズは、2017~2024年にかけて、中国の大学の日本語学科上級生向けに行った「日本国家概況」等の授業教案をまとめたものです。

千年の都、京都から 

 筆者は京都人である。京都は日本の千年の都、ながく政治、文化、宗教の中心地であり続けた都市である。それだけに見どころが多い。国際観光都市としての京都は、近年になってますます多くの観光客でにぎわうようになった。時代を超えて重層的に積みあがった歴史的遺産の数々は、京都を知れば知るほど魅力を増し、味わい深いものになるだろう。限られた時間で京都を旅するのであればテーマを持った旅がおすすめだ。
 京都については、本書でも今度、何度か取り上げていくが、最初に京都文化の基底に近い部分を紹介したい。私たちはまず、京都盆地の西北の頂点にあたる部分、嵯峨野嵐山からスタートする。

嵯峨野嵐山

嵐山渡月橋

嵐山渡月橋

 嵐山は、市中心から1時間以内の近場でありながら、自然に包まれ、古来よりその美しい景観と深い歴史により、人々を魅了してきた地である。京都府北西部の丹波高原から流れる桂川にかかる渡月橋を中心とする風光明媚な一帯は、春には桜が咲き乱れ、川面にその淡い色を映す。秋には紅葉が山肌を錦に染め、訪れる者を深い感慨に誘う。これら自然の営みは、千年以上の時を超え、変わることなく続いている。
 渡月橋を京都市内の側から渡っていくと、対岸に着く直前に中州があることに気づくはずだ。中州の部分は嵐山公園といい、市民や観光客の憩いの場となっている。中州の北端には以下の説明がある。

一ノ堰:一ノ堰は桂川の水を田畑に送るため、古くは五世紀末に設けられたという農業水利市施設である。嵐山の水面の風景をつくる礎ともなっている。一ノ堰から流れゆく洛西用水は、下流で枝分かれし、今も地域の田畑を潤し続け、京野菜や米を育んでいる。

 桂川の上流に向かい左手にあたる部分は、現在遊覧の屋形船の船泊りになっており、流れは目立たないが、南へ向かう洛西用水は暗渠となって、今でも嵯峨野(葛野)方面へ生活用水を供給している。

5世紀末の水利事業

 桂川の流れを変え、京都市西部に水を供給するという土木工事が、5世紀末になされたというのも、驚きである。4世紀から6世紀の日本は文明化の時代である。大規模米作と人口増加は経済という概念を日本人に植え付け、人々の集団は組織化され、貧富の差を生んだ。文明化の進展は争いの原因をも作り出した。漢字を受け入れ学ぶことで、抽象的な思考も進んだ。原始宗教は、仏教、儒教の受け入れの過程において、人々の思考を高度化し、哲学的な様相をも帯び始めた。そういったもろもろの、いわゆる人文科学の急発展もさることながら、土木技術を中心とする、技術進歩についても軽視できない。

渡来人の技術集団

 ヤマト王権は、多くの技術者集団を大陸から受け入れ優遇した。
秦氏もその中の一つの集団で、秦氏は「私どもの先祖は秦の始皇帝である。始皇帝三世の子孫である孝武王が直接の子孫である、とした。もちろん真偽のほどはわからない。渡来集団の中でも大集団であった秦氏は、土木技術をもって農地の開発に努めた。

桂川「一ノ堰」

桂川「一ノ堰」

 本来、桂川は現在の洛西地方を迂回するように流れていた、迂回して山崎へと流れる。山崎と言えば、山崎の合戦をはじめ、いくつかの歴史の舞台となった天王山のふもとで、大阪から京都盆地への出入り口のような場所。桂川は宇治川、木津川と合流し、淀川となって大阪湾へそそぐ。
 この桂川の流れに支流をつくり、洛西の方面に潤沢な水の供給を可能にしたのが、秦氏の土木技術であった。

四川省成都「都江堰」

 中国四川省に都江堰(とこうえん)という古代のダムがある。現在の成都の街の繁栄は、都江堰のダムのおかげと言ってもよい。紀元前256年、戦国時代に未だ関中の一国家に過ぎなかった秦の李冰(りひょう)とその子が建設を指揮し、岷江(びんこう)の自然な流れを活用した灌漑と治水システムを完成させた。その設計思想は驚嘆に値する。岷江は現在の成都平野の西方を南へ流れていた。この川の流れは、成都平野を潤すものではなく山から成都を避け南進していた。李冰はここに人工の支流を二つ作った。その方法はまず人口の中州をつくり、岷江を分流する。分流された内江が成都平野に向かい、その後次々に分流細流化し、野を潤すことになった。李冰以後2千3百年にわたり、岷江は成都の街を潤し続けているのだ。

都江堰

都江堰

 都江堰は、秦がまだ中国全土を統一する前、関中の一王国に過ぎなかったころに建設されたものである。秦はこのようにもともと治水土木工事を得意としていた。
スケールの違いはあれど、都江堰と嵐山の一ノ堰は構造上相似形である。
このことから考えると、日本へやってきた秦氏が、秦の始皇帝の子孫を称するのも、そう荒唐無稽な話でもないかもしれない。日本へやってきた秦氏のグループは、仮に始皇帝の子孫ではないにしろ、都江堰の工事に駆り出された多くの秦の人々の末裔ではないかということは、十分に想像しうる。

角倉了以(1554-1614年)

天龍寺庭園

天龍寺庭園

 さて、渡月橋の手前には有名な天龍寺がある。開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。その天龍寺に古くから関係を持っていた名家の一つに角倉家があった。江戸時代に角倉了以を出した。了以は江戸初期にかけて、京都の多くの水利事業を成し遂げた。森鴎外の小説の題材ともなった“高瀬川”は彼が開削したものだ。
 古代、秦氏によって水利工事がなされた桂川も、水運のための用を足すにはあまりにも急流過ぎた。上流の丹波国は木材の産地であり、一大消費地である京への木材の輸送は陸路によっていた。角倉了以は、保津川の岩を砕き、川筋を整え、特殊な船でもって行き来できるようにした。ヤマト王権の萌芽期、大陸からやってきた秦氏によって開始された桂川の水利事業は、江戸時代、角倉了以によって引き継がれ完成を見、現在に至る風光明媚な風景を作り出したといういい方も可能である。
(後半へ続く)

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日本を学ぶ(12)京都嵐山にて(後編)
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日本を学ぶ(10)漢字伝来のころ
魅力的な宇治だが日本文明発祥の大和盆地の北、千年の都京都の南にあるという場所柄、宇治は日本の歴史の中で重要な役割を果たしてきた。今回は、古代日本が大陸から漢字を受け入れてきた経緯を探り、その過程で重要な役割を果たした人物を探っていきたい。

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