日本を学ぶ(10)漢字伝来のころ

日本を学ぶ
このシリーズは、2017~2024年にかけて、中国の大学の日本語学科上級生向けに行った「日本国家概況」等の授業教案をまとめたものです。

京都 宇治市 

 京都府宇治市は京都市の南に位置する小さな街である。宇治川が穏やかに流れ、古くから人々を引き寄せてきたこの地は、日本有数の茶どころとしても名高い。「宇治抹茶」の名は国内外に広まり、”宇治”は今やその風味と品質の代名詞ともなっている。宇治はまた源氏物語宇治十帖の舞台でもある。光源氏のモデルと言われる藤原道長の子、頼通が建てた平等院は、現行の10円硬貨のデザインとなっており、日本人で知らぬ人はいない。藤原頼通は、死に対する恐怖から、極楽浄土を作り上げようと、平等院を建てたと言われている。そんな平等院から、宇治川をはさんで対岸、ちょうど直線上のやや高い位置には1994年、現存する最古の神社建築として世界遺産に登録された宇治神社、宇治上神社もある。

平等院鳳凰堂

平等院鳳凰堂

 このように、人を惹きつける観光地として魅力的な宇治だが日本文明発祥の大和盆地の北、千年の都京都の南にあるという場所柄、宇治は日本の歴史の中で重要な役割を果たしてきた。
 今回は、古代日本が大陸から漢字を受け入れてきた経緯を探り、その過程で重要な役割を果たした人物を探っていきたい。

読み書きそろばん

 江戸時代、最低限度の教養のことを「読み書き算盤」といった。話す、聞く、簡単な足し算ぐらいなら習わなくても自然に身につくが、人の書いたものを読み考えるということ、またそれらを広くアウトプットし自分の考えを文字にして伝える書くという行為は自然にできるようにはならない。さらに計算という頭の中のプロセスを、指先の動きに外部化し計算処理を飛躍的に向上させた算盤という道具の使いこなしなどは、誰もが習熟できるものでもない。例えば江戸期の日本人にとっては、一部のエリート層だけの革新的なツールだったろう。
 さて、われわれは読む、書くという技能について、ある程度意識して、長時間修練を積まなければ習得できないということに着目しよう。4万年前、日本人の先祖が日本列島にやってきた頃、日本人の祖先はある程度の言葉を“話す”ことができた。集団生活の中で、語彙は自然に増えていき、交易や宗教的な儀式の発達とともに、話す言葉としての日本語は、より複雑な表現が可能になっていったことだろう。しかし、日本人が日本語を話すようになってから、自ら文字を生み出すことはできなかった。そして漢字という文字の存在を知ってからも、それを持って積極的に意思伝達に使うようになるまで、かなり長い時間がかかったのだ。

大陸での漢字の普及

 漢字の生みの親である中国の状況を考えてみよう。大陸では殷王朝の時、漢字が生み出された。最初の漢字は甲骨文字であり、主用途は祭祀用であった。つまり殷の人々は、亀や魚の骨を火であぶり、できたひび割れで吉凶を占った。その結果を記したものが漢字の起源だった。それは人間同士のコミュニケーションの道具としてというよりも、限られた人間が、神と交信するためのものという性質のものであった。

周代の青銅器に刻まれた文字

周代の青銅器に刻まれた文字

 そんな生い立ちをもつ漢字であるが、時を移さず周辺国の“周”によって人と人とのコミュニケーションに利用されたことがわかっている。周時代の遺跡から発掘された多くの青銅器には、周が周辺国との、安全保障の取り決め、あるいは税の徴収などの取り決めを記した文章が漢字で彫り込まれていた。強大な殷王朝に対抗するため、周は周辺国の人々と、文字を通じたコミュニケーションを“発明”することにより、強大なネットワークを作り、やがて殷を滅ぼすに至るのである。

漢字伝来

吉野ヶ里甕棺墓から出土した中国製銅鏡

吉野ヶ里甕棺墓から出土した中国製銅鏡

 日本人が漢字をはじめて見たのはいつのことだろうか。わかっている範囲では、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓から出土した約2000年前の中国製銅鏡に刻まれているものが最も古い。そこには次のような八つの漢字が刻まれている。久不相見、長毋相忘「長い間会えなくても、いつまでも忘れないで」という意味になる。この漢字を古代の日本人はどのようなものとして眺めたのだろうか。文字というよりも、たんなる装飾としてしかとらえてなかったかもしれない。有名なところでは、紀元57年に委の奴国の王の使者が後漢の都洛陽に赴き、光武帝から金印を受けた。金印には漢委奴国王という文字が彫られていた。さすがにこの時には一つ一つの漢字の意味するところは、日本人にもわかっていただろう。
 七支刀は、奈良県天理市の石上神宮に収蔵されている長さ75センチメートルの鉄製の両刃の剣である。364年倭軍が渡海し、朝鮮半島南部を平定したことに対して、百済の王から送られたものとされ、両面に金象嵌で61文字の銘文が記されている。以下のような趣旨である。

泰和四年(369年)6月1日、鍛えた鉄でこの七支刀をつくった。敵兵をことごとく破ることのできる霊剣である。天子にさしあげる。百済王ならびに貴須王は、倭王のためかつて見たことのないこの刀をつくった。後世まで伝えてほしい。

 このあたりになれば、日本人は、書かれた文字を理解するところまではできたと考えられる。

七支刀

七支刀

 しかし、初めて漢字というものの存在を知って3-400年を経たこの時代にいたっても、日本では、かつて周代にコミュニケーションツールとしての文字が急速に普及したような、爆発的な漢字の広がりは見られなかったようだ。それでは、実際に日本人が真剣に「読み書き」を習い始めたのはいつからなのだろう。

菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)

 冒頭に宇治市の紹介をした。その時に近年世界遺産に登録された宇治上神社、宇治神社について言及したが、その二社に祀られている菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)が今回の主人公である。ウジノワキイラツコは第15代天皇である応神天皇の末子にあたる。以下、少し応神天皇について述べておこう。

応神天皇

 応神天皇の父は14代仲哀天皇である。仲哀天皇の皇后つまり応神天皇の母を神功皇后といい、古事記中では三韓征伐を行った女帝として描かれている。三韓征伐とは、現在の朝鮮半島に兵を進め、敵対する勢力と戦い平定したことを指す。三韓征伐が、現実の史実に比定されているわけではないが、4世紀後半には、倭国軍は何度か朝鮮半島方面へ出兵しているようである。前述の七支刀は364年の出兵に対する返礼として百済から贈られたものであり、別の物証としては、現在の吉林省にある広開土王碑に、「391年に倭国が出兵してきて百済と新羅を臣民とした」という文字が残されている。古事記の三韓征伐の話自体は、実際にあった史実を元にして、記述されているといってよいだろう。
 神功皇后は戦いに向かう時、子を宿していた。戦いの最中に産気づくのを抑えるため、霊力のある石をお腹に巻き付けて戦いに向かったという。それほどの強い女性であったという逸話だ。生まれてきたのが応神天皇である。
 応神天皇本人の事績については、古事記等の資料中には、なぜかあまり多く語られていない。時代から考察すれば、大陸から多くの技術を導入し、あるいは優秀な人材を招き、国を富ませる善政を行ったようだ。

応神天皇の後継者ウジノワキイラツコ?

 応神天皇には3人の後継者候補がいた。長兄の大山守(オオヤマモリ)、次に大雀(オオサザキ)、末子が菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)である。菟道稚郎子はその名の示す通り、応神天皇が宇治方面に行幸したときにもうけた子で、聡明であり応神天皇のお気に入りであった。
 そして、ウジノワキイラツコは応神の寵愛を受けるに値する聡明な皇子であったようだ。百済から渡来した阿直伎(アチキ)を師として文字や漢籍を学んだ。西暦にして400年前後のことであったろう。記録に残るものとして、日本人が文字を装飾や呪術ではなく、そこから知識を得るための媒体として、認識し本格的に使用を始めたのがこの時期なのである。ウジノワキイラツコは阿直伎だけでは飽き足らず、より本格的な師として王仁(ワニ)を呼び寄せ、どん欲に学んだという。ウジノワキイラツコが王仁から学んだものとして千字文と論語があったと古事記は記している。参考までに、大阪府枚方市にあった無銘碑が、いい伝えなどから王仁の墓であると認定され、現在は美しく整備されている。

伝王仁墓入口石碑

伝王仁墓入口石碑

 前述のように、応神天皇の時代は、国際化の時代であった。それは日本にとって機織り、木工、造船、土木などの先進的技術が流入した形跡が多くみられることからわかる。この国際化を応神天皇の傍らにあって支えたのがウジノワキイラツコであったという想像も可能だ。
 応神は崩御を前に、ウジノワキイラツコを後継に指名する。二人の兄はその場では納得したが、応神亡きあと、兄弟の葛藤が表面化する。領地分配や与えられた地位にまず不満を表明し反乱を起こしたのが長兄のオオヤマモリである(大山守の乱)。この争いは宇治川を渡ろうとしたオオヤマモリがウジノワキイラツコの策略によってあっけなく宇治川の底に沈められ結末を迎える。
 兄弟同士の戦いを経験したウジノワキイラツコと残るオオサザキは、もはや醜い争いを望まなかった。お互いに皇位を譲り合うことが3年続いたという。結末について諸説あるが、宇治神社のいい伝えによると、末子のウジノワキイラツコは自分の存在が紛糾の元だと考え自死を選んだという。有能さゆえの、悲劇である。

第16代仁徳天皇

 以上の経緯を経て、オオサザキは仁徳天皇となった。仁徳天皇と言えばその名が示す通り、徳の高い天皇として古事記では描かれている。ある時、仁徳天皇が高台から国を見渡すと、食事時だというのに人家から煙が上っていない。彼は、人々の困窮を知り、三年間、労役と租税を免除し、仁徳自らは贅沢を極力抑えた質素な生活を続けた、という逸話が残っている。
 3世紀中ごろから7世紀はヤマト王権の時代であり、またの名を古墳時代という。日本の長い歴史の中で、日本人が巨大構造物を作った唯一の時代である。古墳時代を通して日本全国には合わせて十数万基におよぶ古墳が作られた。その中で、最も大きいものが仁徳天皇陵(大仙陵)である。墳墓としては面積世界最大であり、墳丘の長さで486mある。仁徳天皇陵はピラミッド、秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓と称されることもある。ちなみに第二位が応神天皇陵。二位ではあるが、容積でみれば日本一であることを言い添えておこう。
 ウジノワキイラツコについては、その墓とされるものが現在の宇治上神社のある山にある。また現在の京阪電車宇治駅近くに、地元で長く丸山と呼ばれた小さな盛り上がりがあった。どうもそれがウジノワキイラツコの墳墓であったらしい。

菟道稚郎子尊宇治墓

菟道稚郎子尊宇治墓

 明治になってから、その場所を中心に墳墓長80mの前方後円墳が新たに築かれた。現在は菟道稚郎子尊宇治墓として宮内庁管轄地となっている。日本ではじめて漢字を知的ツールとして使いこなし、活用したという点で、ウジノワキイラツコの業績は偉大である。その割に、日本歴史の中においては目立たない存在であるのも、彼の生き方を反映しているようで、好ましく感じられる。

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日本を学ぶ(9)天皇の誕生 神武東征
二ニギのひ孫にあたるイワレビコという神が日向(ひむか)の国を治めていた。おそらく当時の九州は火山活動も活発で、大規模な噴火も頻発。気候変動のたびに食物が不足し、結果、人々の争いの絶えない時代であったろう。「天下を平定するために東へ向かおう」と、イワレビコは日向を出発し、北九州筑紫へ。さらに本州へ渡り、現在の山口県、広島県、岡山県、兵庫県と東進する。

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