川端康成の『伊豆の踊子』
1968年、日本初のノーベル文学賞を受賞した川端康成の代表作の一つ『伊豆の踊子』は次のように始まる。
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。
「伊豆の踊子」は、川端康成が19歳の時、実際に伊豆旅行をした時の体験に基づく小説であると言われている。主人公である20歳の学生は自分の性質が“孤独根性”で歪んでいると反省を重ね、その憂鬱に耐えきれず伊豆の旅に出る。旅の中で出会った旅芸人の一団の中の踊子との接触を通じ、主人公の魂が浄化されていく過程を、美しい文体で描いている。
舞台となった伊豆半島は静岡県東部の太平洋に突き出た小さな半島。富士火山帯に属し、伊豆修善寺温泉、近郊に熱海温泉、箱根温泉など有名な温泉地があり、過去から日本の名だたる文豪が保養のために訪れる地でもある。伊豆半島の中部は山々が連なり、なかでも主人公が目指していた“天城越え”は昔から急峻な山道を登っていく難路として知られている。
「つづら折り」というのは道が曲がりくねっているということで、それだけ勾配がきついということだ。小説はさらに次のように続く。
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲がった急な坂道を駆け登った。ようやく峠の北口の茶屋に辿りついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。余りに期待がみごとに的中したからである。そこで旅芸人の一行が休んでいたのだ。
「重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋」、「折れ曲がった急な坂道」といった描写が、伊豆半島の地形をよく表している。的確な自然描写とともに、主人公と踊子の映像的ともいえる出会いの様子が描かれ、加えて彼が踊子と会うことに期待している心情までもがわかる、すばらしい文章である。
日本の中の伊豆・箱根
「箱根」は伊豆半島の北方にあり、現在の都道府県で言うと神奈川県に属する。江戸(東京)から京都への幹線道路である東海道の宿場の一つであった箱根は、安藤広重が東海道五十三次の箱根宿で描いたように、やはり旅人にとって越えるのが難儀な場所であった。伊豆箱根とはそのような地方である。
さて、「日本を学ぶ(1)日本のおへそに立ってみる」の記事では、大陸から分離した日本列島の原型にあたる島が、一度中央部で分断された後中央部が埋められ、約100年前現在の日本列島の祖型が完成し、その新たに埋められた部分がフォッサマグナであるというところまで述べた。日本列島の完成には、実はもう一つ、重要かつ劇的な大陸の動きがある。
日本の中央部に広がるフォッサマグナであるが、地層的に見ると大きく北部と南部に分けることができる。北部フォッサマグナの生成過程についてはまだまだ分かっていないことが多いが、フォッサマグナ南部にあたる部分がどうしてできたか、ということについては最近の研究である程度わかってきた。ちなみにフォッサマグナ南部のほぼ中心にあるのが富士山である。
フォッサマグナは、遠い昔日本列島が大陸から分断された後二つに分かれた部分にあたる。一度分断され海となった部分が、例えば単に堆積によって埋められ陸地化したのであれば、どうして長野県を中心に中央アルプスという山岳地帯が形成されたのか、不思議に思った読者もいるであろう。その種明かしが以下となる。
太平洋からの槍
日本は四つのプレートの接合点にあたる場所にあることは前回述べたが、そのうちの一つフィリピン海プレートの東端の動きが、100万年前以後の日本の地形に大きな影響を及ぼしている。富士火山帯がフィリピン海プレートの東端部に相当する。そして富士火山帯は富士箱根地方から伊豆半島を経て、伊豆諸島、小笠原諸島へと太平洋を南下している。地図上で確認すればちょうど小さな島々が一直線に並んでいるがその部分である。
その部分つまり伊豆・小笠原諸島はフィリピン海プレートに乗ったまま、長い期間でみると北方へ北上し続けているのだ。つまり、伊豆・小笠原諸島は、数百万年の昔からちょうど日本列島の中心部に向かって槍のように突き刺さるような運動をしていることが分かっている。この槍の部分を“伊豆バー(izu bar)”と呼ぶ。
フィリピン海プレート全体は北へ動き、紀伊、四国の南方の南海トラフでは大陸プレートの下に潜り込む運動をする、その動きが過去日本に定期的に大地震を引き起こし、現在遠くない将来に起こるのではないかと予測されている“南海トラフ地震”として話題になっている。その同じフィリピンプレートの東端部は上部に列島が乗っていることでも想像できるように、他の部分に比べ地殻が厚く20キロメートル以上ある。そのすべてが大陸プレートに潜り込むことができず、上部がはぎ取られ、本州に押し付けられるように付け加えられているということだ。その“付加体”と呼ばれる部分として残ったのが伊豆半島そのものということになる。これは日本列島の中で伊豆半島だけがフィリピン海プレート由来の土地であるということを意味する。
伊豆半島が本州に“衝突”したのが100万年前、富士山の生成は直接この“槍(伊豆バー)”の動きと必ずしも連動しているわけではないと言われてはいるが、“伊豆バー”の北上によって刺激され、
何度も噴火を繰り返すうちに富士山ができ上ったといっても間違いではないだろう。そして何よりも、この“伊豆バー”の運動の結果をあきらかに残しているのが、中央アルプスである。
中部日本の山脈、山地を俯瞰してみよう西の赤石山脈、木曽山脈、飛騨山脈、東の関東山地あたりに注目すると、「八」の字型に広がっているのがわかる。これは南からの押し上げる力が大地を隆起させる力となって働き、中央日本に独特の高地を作り上げた“動かぬ証拠”なのである。
そしてソメイヨシノ(染井吉野)が誕生した
日本を代表する自然と言えば、多くの人が富士山とともに、桜を思い浮かべるだろう。
日本の桜はソメイヨシノという交配種で他の国の桜と異なる。大木となった満開の桜の風景は実に美しく、散り際の桜の美は日本らしさの象徴でもある。
このソメイヨシノという品種、江戸時代後期に江戸の染井村の植木職人が生み出したもので、その後昭和の高度成長期に爆発的に全国に広がったものである。ソメイヨシノはもともと関東地方にあった桜と、南方の大島(小笠原諸島)に生育していた種との交配の結果生まれたものという。大島は伊豆諸島北端、伊豆半島の東に位置する島である。日本の美を象徴するソメイヨシノもまた海洋プレートに乗って南太平洋から運ばれてきた桜と、大陸由来の本州種との奇跡的な出会いによって生み出されたものなのである。
長野の盆地「諏訪湖」から富士山が見える
天気の良い日には、長野県諏訪盆地の諏訪湖から、美しい富士山の姿を見ることができる。中央アルプスのど真ん中、中央構造線とフォッサマグナの結節点から、遮るものなく美しい富士山が見えるというのも、単なる偶然ではないだろう。
地震国日本では、この分野の研究は盛んに進められている。地震予測もそうだが、日本列島形成にかかわる謎についてもまだまだ新たな知見を必要とする。いつの日か、より詳細に日本列島の誕生について知ることができる日がくるだろう。そして、その成果は自然科学の分野だけでなく日本人の心や考え方にも影響を及ぼすに違いない。
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