日本を学ぶ(4)日本アニメの系譜Ⅰ

日本を学ぶ(青)
このシリーズは、2017~2024年にかけて、中国の大学の日本語学科上級生向けに行った「日本国家概況」等の授業教案をまとめたものです。

 日本はアニメ大国である。しかし近年の少子化による子供人口減少の急激な減少とともに、日本国内でのアニメ・漫画産業は頭打ちになっている。一方で、日本アニメは世界各国で広く受け入れられるようになり、世界的に見れば日本アニメ産業は成長を続けているのが現状である。ここでは、日本のアニメがなぜ世界の人々に受け入れられ人気を博するようになったのか、ということについて考えてみよう。

三星堆と尖石

  1986年四川省徳陽市で三星堆遺跡が発見された。今から5000年前から3000年前にかけて、かの地で独自の文化が栄えていたのだ。発掘された青銅製の仮面の数々は、その独特の外観によって、人々の注目を集めた。

三星堆の仮面

三星堆の仮面

 さて今から5000年前というと、日本では縄文時代中期にあたる。その頃、長野県諏訪湖からほど近い八ヶ岳西南山麓一帯で著しい発展をとげた人々がいた。発掘された土偶(土で作った人形)の中で有名なのは“縄文のヴィーナス”、“仮面の女王”の二体が有名である。

縄文のヴィーナスと仮面の女神

  高い技術力で精巧に作られた三星堆の仮面と、稚拙ともいえる尖石の土偶は、本来比べるようなものではないが、三星堆の仮面は、強さ、美しさ、を誇示するかのような外観を呈しているのに対し、はるか東の島国で作られた造形には、暖かさ、そして、可愛らしさ、を感じ取ることができるだろう。かつては“遅れた文化”、“原始的な稚拙な文化”の産物とみなされ、顧みられることがなかった縄文時代の文化であるが、縄文人の心は現代日本人になんらかの形で引き継がれている。そして、1万年以上続いた縄文文化の成果は、現代日本人の特質にも、伝統的に継承されていると考えることができる。そのような意味で尖石遺跡の土偶は、日本の漫画やアニメの祖型といえるのではないだろうか。

 ここでは、縄文の土偶の造形をスタートとして、その後の日本人の絵画、造形に現れる“漫画、アニメ的”なものについて時代を追って列挙し、現代のアニメ、漫画文化につながる系譜をたどってみよう。

アニミズムの残像

 日本列島には、少なくとも3万数千年前から人が暮らしていた。彼らは国土のほとんどを覆う森林の中の洞窟に住み、“考える”力を持ち、仲間を思いやる心、一方で自然に対する恐れと信仰のようなものをもっていた。アニミズム(animism)とは、すべてのものに霊魂があると考える一種の原始信仰。これは、日本人だけではなく、太古の人間が自然や万物に対して自然に抱く“恐れ”から生じた自然な思考である。日本の国家宗教ともいえる“神道”は、この自然に対する畏怖の念から自然に発生したものと言われている。思想として体系化されたものではなく、教祖や教義はもちろんない。神社で信仰の対象となるものは、山や、巨木、巨大岩石であり、キリスト像のような、人の形をした偶像を本来もたない。

神道のご神体

神道のご神体

 日本人にとって“神”とは、形あるものではなく、山や木などの自然物に降臨する“精神”のようなものと考えることもできる。そして“八百万の神”という言葉があるように、神は日常生活のさまざまな場所、場面に存在していた。実は、そのような形を持たない神が、日常生活の中にいるからこそ、人々は、“霊魂”的存在になんらかの“形”を結びつけるようになっていった。

 例えば、暗闇の中にいる時、森の中を歩く時、本能的に感じる恐怖を、人間の形をした、神や妖怪の姿として描くことは、恐れを増長するのではなく、むしと恐怖心を軽減する効果があったのかもしれない。もののけ姫やトトロに登場する「精霊」や「まっくろくろすけ」などは、「アニミズム」が生み出した「アニメ的キャラクター」といってもいいだろう。

森の精霊

森の精霊

明日香の石造物遺跡(7世紀)

 奈良は日本の古代王朝がスタートした場所である。4世紀末から6世紀にかけてのヤマト王権から、飛鳥時代、奈良時代と続き、8世紀末(794年)、京都に都が移されるまで、日本の中心であった。奈良時代の都のあった場所の南方に、明日香地方がある。そこには、国家建設の途上であった飛鳥時代の多くの石造物が残っている。
 7世紀の斉明天皇(女帝)の時代に作られたとされる石造物の数々は、現代の漫画・アニメに通ずるような、デフォルメされた豊かな表情を持っている。

明日香の石造物(7世紀頃)

明日香の石造物(7世紀頃)

 明日香地方のあちこちに放置されたかのように点々と存在するこれら石造物は、その使用用途が不明の物も多い。もしかしたら当時の人々が、遊び心で作ったものも含まれているかもしれない。

10世紀「百鬼夜行ブーム」、妖怪は怖くない?

 古代の森林生活者の原始信仰(アニミズム)は、自然に対して人々が漠然と感じる恐怖を擬人化することで、さまざまな“妖怪”のようなものを生み出した。日本人の想像力は、それら妖怪を可視化し、本来それが出現したら恐怖の心でしか迎えられないはずの妖怪を、できるだけ明るい気分で迎えようと努力したのだろう。

 10世紀ごろに流行した読み物の中には「百鬼夜行」という言葉がよく出てくる。これは、鬼や妖怪が深夜、集団で街を徘徊しているという、巷のうわさ話。彼らは明るくなるといなくなるが「百鬼夜行」に出くわすと死ぬという都市伝説も生まれる。

 人々は恐れながらも、決して心からその存在を信じるわけでもなく、多く描かれた「百鬼夜行絵巻」の中には、妖怪たちがおもしろおかしく踊る姿が描かれている。 

 京都の一条通では、毎年秋に「一条百鬼夜行」が開催され、若者を中心に思い思いの妖怪コスプレをして百鬼夜行行列を楽しむ。

12~13世紀。 鳥獣戯画

 鳥獣戯画は日本漫画の直接のルーツとしてよく取り上げられる中世の絵巻である。さまざまな動物の姿で、当時の世相を風刺的に描いたもの。

鳥獣戯画(12-13世紀)

鳥獣戯画(12-13世紀)

 漫画は当初、社会批判、風刺のための表現手段という性格を持っており、その後漫画とは“風刺画”として人々に愛された。

江戸時代 浮世絵の登場

 江戸時代に入り、庶民文化が花開く。海外にもファンが多い江戸文化の一つに「浮世絵」がある。多くの「浮世絵」は版画として多数刷られ、庶民が買い求め見て楽しんだ。葛飾北斎(1760-1849年)の「富嶽三十六景」、安藤広重(1797-1858年)の「東海道五十三次」は一世を風靡し、現代でも世界的に人気がある。

東海道五十三次「蒲原」「箱根」

 浮世絵は単なる風景画ではない。例えば安藤広重「東海道五十三次」の「蒲原」には蒲原に実際にある宿場の雪景色を描いたものであるが、実は現実の蒲原(現在の静岡県)は温暖な地方で、雪が降らない。広重は、もし蒲原に雪が降ったらこのような景色になるだろうと想像してこの絵を描いた。また東海道の旅で、険しい山道となる箱根に関しては、実際の山よりはるかに高い山を描き、そこに馬や人々が登っていく様子を描いている。

 このように、誇張(デフォルメ)、想像を駆使して風景を描写したからこそ、人々はそこに面白味を感じ広重や北斎の浮世絵を争って手に入れようとしたのである。

(続く)

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