日本を学ぶ(3)日本人の来たみちⅡ

日本を学ぶ
このシリーズは、2017~2024年にかけて、中国の大学の日本語学科上級生向けに行った「日本国家概況」等の授業教案をまとめたものです。

ネアンデルタール人 vs ホモサピエンス

 およそ20万年前、ヨーロッパにネアンデルタール人、アジアを中心にホモエレクトス、アフリカにホモサピエンスの3種の人類が広がった。そして19万年前の気候変動により、3種のうち、アフリカに残ったホモサピエンスが絶滅の危機を迎え、アフリカ南端まで追い詰められた。ホモサピエンスのうち貝を食料として生き残った1万人足らずが、かろうじて生きてゆく道を見つけたところまでが前回の話。

北京原人(ホモエレクトス)

北京原人(ホモエレクトス)

 さて、危機を乗り越えた私たちの先祖ホモサピエンスは、アフリカ東岸に沿って北上し、徐々に個体数を回復していった。そして5万5000年前、ついにホモサピエンスもアフリカを旅立つことになる。
 その頃には、最初にアフリカを出たホモエレクトスは、なんらかの理由で徐々に衰退の道を歩んでいたらしい。(有名な北京原人、ジャワ原人はホモエレクトス)ホモサピエンスは、残るネアンデルタール人と共存しつつ徐々に生活の範囲を広げていったと考えられている。
 最終的にネアンデルタール人は滅びてしまうのだが、なぜホモサピエンスだけが最後の人類として生き残り繁栄を続けていったのであろうか。実際、二種の人類を比較すると、ホモサピエンスの方が優れているという要素はなかった。脳の容積は、わずかにネアンデルタール人が大きく、彼らはすでに簡単な言語も話していたらしい。最も大きな差は身体能力で、ネアンデルタール人は頑丈で力も強く、大きな動物を肉弾戦のようなやり方で捉え、食料としていたらしい。対するホモサピエンスは、ウサギのような小動物を獲物にするぐらいであったという。

ネットワーク力の勝利

 そんなホモサピエンスに逆転の時が訪れた。知力でもネアンデルタール人と比べ、必ずしも優れてはいなかった彼らが、劣った身体能力をカバーする飛び道具である“アトラトル”を生み出したのである。

ネアンデルタール人とホモサピエンス

強いネアンデルタール人とアトラトルを発明したホモサピエンス

 アトラトルは、簡単な道具ではあったが、投擲の際、補助具として使うことで、槍の射程距離を2倍以上にできた。狩りにおいて槍を飛ばせる距離が2倍になるということは、生存のための圧倒的な強みとなることは言うまでもない。ホモサピエンスの起こしたこの“道具革命”こそ、ホモサピエンスの弱点であった力のなさを補い、さらなる繁栄への原動力となった。反対に、自らの身体能力のみに頼って狩りをしていたネアンデルタール人はやがて衰退の運命をたどってゆく。
 しかし、考える力についても一段上であったはずのネアンデルタール人は、なにゆえに、ホモサピエンスのような道具革命を起こせなかったのだろうか。その答えは生活する集団の大きさであったと推定されている。

一人で考えるネアンデルタール人と集団思考のホモサピエンス

一人で考えるネアンデルタール人と集団思考のホモサピエンス

 遺跡を調べると、ネアンデルタール人はせいぜい10人から20人程度の集団で生活していたのに対し、ホモサピエンスは100~150人程度が集まって暮らしていたことがわかった。そのような大集団の中で、情報が共有され、アイデアを出し合った結果、アトラトルという優れた狩りの道具を生み出したのではと考えられる。つまり、ホモサピエンスが現在まで生き残ることになった、最後の鍵は彼らの“ネットワーク力”であったと考えられるのだ。

5万年前

 そして5万年前、地球上に残る人類はホモサピエンスだけとなった。現代にいたる長い人類の歴史を振り返ると、440万年前、ラミダスの生み出した「家族」。380万年前、アファレンシスが生き残る鍵となった「仲間を作る力」。さらにホモハビリスの「道具」を作る力。そしてホモサピエンスの「ネットワーク力」が、現代まで続く私たち人類のもつ「強み」となったことがわかるだろう。
 付け加えておくと、ホモサピエンスと共に、最後まで残っていたネアンデルタール人の遺伝子は、現代人の遺伝子中に数パーセント残っているという。人種、個人によっても異なるが、例えば日本人にも1~4パ-セントのネアンデルタール人の遺伝子が存在する。このことは、ホモサピエンスは、争いによってネアンデルタール人を滅ぼしたのではないことを物語っている。

日本到達への試練

 さて、アフリカ、ユーラシア大陸に広がったホモサピエンスが次に目指したのが日本である。5万5000年前にアフリカを出発したホモサピエンスだが、日本への移動には大きな壁があった。日本への移住は、北と南の二つのルートがあったが、北ルートには極寒の大地が、南ルートは海が、その行く手を阻んでいた。

北からの移動

動物の骨で作った縫い針

動物の骨で作った縫い針

 4から3.7万年前あたりに、初めて北からホモサピエンスの移動があったことが分かっている。そのブレイクスルーとなったのは“縫い針”の発明である。動物の骨から作った“縫い針”は、ホモサピエンスに寒さに打ち勝つ動物の皮をつかった防寒着を作ることを可能にした。たかが縫い針であるが、縫い針を作るための技術は、それまでの単純な道具と本質的に異なる。割る、削る、磨く、穴をあけるといった、いくつかの工程に従って制作する必要がある。最新の研究では、物事を順序だてて処理する能力は、それまでの単純な一つだけの工程の道具造りとは異なる脳の部位を使うことがわかっている。脳の中のその部位は、言語を操る部位と同じであるという。つまり順序だてて言葉を発する複雑な言語コミュニケーションの発達と、工程を順々にこなして、目的の道具を作る能力は似通った能力であり、ホモサピエンスはそれらが、この時期、一歩ステップアップしたからこそ、彼らは極寒の大地、そして結氷した海の上を、獲物であるマンモスを追いつつ日本列島まで進出できたのである。

南からの移動

斧

 道具を作る能力は、またホモサピエンスが海を渡る際にも生かされた。最初に海を渡った人類は、当時大陸と陸続きであった台湾にあたる場所から、約100キロメートル離れた石垣島への移動であったことがわかっている。台湾には八仙洞遺跡、石垣島では当時の人骨、白保人骨が発見されており、ゲノム解析から実際にこのルートの移動があったことが実証された。彼らは100キロメートル弱の海を渡る必要があった。水平線のかなたにある石垣島を、なぜ目指したのかはわかっていない。おそらく、好奇心旺盛なホモサピエンスは、ちょうど太陽の登ってくる方向にある海の向こうの陸に立ってみたいと考えたのであろう。それを可能にしたのは、丸木舟である。丸木舟を作るためには大木を切り倒し、中をくりぬく加工が必要である。そのための道具として、鋭利な歯をもつ石器を木の棒に括りつけ作った“斧”が作られた。出来上がった丸木舟に数人のホモサピエンスが乗り込み、おそらく何度もチャレンジした末に、あるとき海を渡ることに成功したのであろう。そして石垣島にたどり着いたホモサピエンスは、その後も島から島へと渡り、現在の日本列島までたどり着いたのである。
 一度、ブレイクスルーがあると北からのルート、南からのルートで多くのホモサピエンスが日本列島にやってきたに違いない。その後、第三のルートである現在の朝鮮半島からのルートも加わり、これら三つの流入ルートを経て日本にやってきた人々が原始日本人を形成したのであろう。

バラ色の縄文時代へ

縄文の暮らし

縄文時代の暮らし

 現時点でわかっている最古の村の遺跡は青森県の山元遺跡であり1万6500年前のものだ。その頃から3000年前に大陸から稲作技術が伝わり、稲作中心の社会ができ弥生時代が始まるまでの1万年以上の間を縄文時代と言う。縄文時代の日本人は、争うことなく安定した生活を送っていたことがわかっている。

以上、主にNHKスペシャル番組『人類誕生』の内容を参考にさせていただきました。

(続く)

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