2006年6月29日成田発MU524、上海行き
2006年6月29日、中華東方航空MU524便は成田から上海へ向け一時間遅れで離陸した。
上海事務所の所長をしてきたSが、当面総経理を兼任することになっていた。Sは北京生まれ、日本の一流商社に長く勤め、私の会社に中途で入った時にはすでに帰化し日本人になっていた。中国語ネイティブであるが、日本語ももちろん堪能である。私が研究部長時代、中途入社の彼に製品に関する説明をしたことがあり、以来よく知っていた。同い年である。
日本でうまく仕事をしている中国人は、ほとんどそうだが、物腰柔らかで好感の持てる人柄で、気安く話をする仲になった。私が海外事業部へ行ってからは共に中国展開を担当する仲間となっていた。その彼に、一通の手紙を渡すのが上海行きの目的であった。東京での中国担当はすでに研究部門から転勤となった者に引き継いでいた。比較的余裕のあった3か月間の引継ぎ期間、私は手紙を書くことに集中した。他の日本人スタッフではなく、Sへの「親展」とするため、ほとんどまともに勉強していなかった中国語で書くことにした。近場の東京駅前にあった中国語学校へ毎日のように通い、少しずつネイティブに直してもらった。1日数行から始めた。書き終えるのに、上海へたつ、ぎりぎりまでかかり、最後の清書は南通のホテルでやった。 その内容を、AI翻訳したものが以下である。日本語にすると、話があちこちに飛んでいて重複も多い、文章も小学生の作文のようだが、固有名詞だけを伏せてそのまま紹介する。
S総経理様 「親展」
私は当社に入社以来、一昨年末までの20年間、研究所で仕事をしてきました。今回、東京支社の海外事業部で1年半お世話になった後、再び古巣の研究に戻ることになりました。私の海外事業部における仕事には、確かにまずい部分もありました。周囲の人々は東京での1年半の経験は私のキャリアに大きな不利をもたらすと言っています。ある意味で、東京での生活は、私の仕事人生における、寄り道であったかもしれません。しかし、この寄り道のおかげで、私は、人として生きる上で、忘れそうになりかけていた重要なことを思い出すことができたと感じています。
大切なこととは、過去会社の中でずっと順調に昇進の道を歩んできた私が、激しい競争の中で失いつつあった、人を思いやる心です。そのことを思い出させてくれたこの1年半のは、私の人生においてかけがえのないものだったと、まず申し上げておきます。
小学校の通学路
例えば、私が今現在の東京支社への通勤経路と、30年以上前に通った小学校への道を両方描いたとしても、小学校への道の方がより詳細に描けるでしょう。なぜなら、私も遊びながらその道を歩いていたので、いろいろな景色や友達との会話、季節の風の匂いに至るまで、昨日のことのように蘇ってくるからです。
東京、上海、南通という寄り道
東京に来て、中国現地法人の立ち上げに関する仕事を始めたとき、私は中国や中国人に対してあまりよい印象を持ちませんでした。それは、中国人の仕事に対する考え方が理解できなかったからだと思います。彼らは規則を守らないように見え、特に商取引では人間関係が優先されてしまうことが私には納得できませんでした。
「上に政策あり、下に対策あり」と中国では言いますが、これは極端に言えば、都合の悪い規則があったらそれをなんとかすり抜ける方法を考えよ、という意味に他なりません。中国人のビジネスに対する態度は、研究上がりの私には理解できるものではありませんでした。私もさまざまの中国人と仕事を通じて“濃厚”な付き合いをしながら、1年以上の時間を費やしようやく最近では、中国人が寄って立つ前提のようなものを、理解し始めています。仕事をする人間としては、さあこれからという段になって、去っていくのはいささか残念でもあります。
寄り道こそが人生の核心部分
そして、人生は絶え間ない寄り道であり、その寄り道こそが人生の核心部分であるということもわかりました。私はもう一度寄り道をすることに決めました。京都に戻る前に、まず上海に3日間滞在することに決めました。この1年半の間にお世話になった中国の友人に会い、また過去さまざまな機会にお世話になった先輩であり、友人でもある亡きYに、別れを告げるためです。
2004年12月に初めて上海に来たとき、次に来るときは中国語で会話しましょうと、あなたと約束をしました。あっという間に1年半が過ぎました。この1年半の間、中国の会社と東京の国際部には多くのことがありました。そのため、中国語の勉強は二の次になり、あの時の約束は果たせそうにありません。
手紙を書きながら思ったこと
確かに東京に住む中国人にとって、中国語学校というのは、安心できる唯一の場所なのかもしれないと始めて思いいたりました。そして、彼女も以前は日本と日本人が好きではありませんでしたが、日本に留学して多くの日本人と接するうち、日本人が好きになったということです。その言葉に私は感動しました。以来、懸命に中国語を学び、中国人の考えを理解しようと努力し、この手紙を書き終えました。こんなものと思われるかもしれませんが私にとっては大仕事でした。
最後まで
人生の前半部分では、多くのことをやらなければなりません。例えば、学校に通う、結婚する、子供を育てるなどです。しかし、人生の後半部分には目標が少なくなります。一度安定すると、とてもリラックスして時間が早く感じられます。人生を自転車に例えるなら、前半部分は上り坂で多くの努力が必要で、後半部分は下り坂であまり努力が必要ありません。下り坂のような生活を送っていたら、人生の最後の日に早く過ぎ去った後半部分をどう感じるでしょうか。私の東京生活は終わろうとしていましたが、最後の日、つまり今日、クライマックスを迎えるべく目標を定めました。人生は最後の日まで、重荷を背負って坂道を登るべし、と誰かがいいました。上り続けることに意義があります。そしてこの文章を書き始めたときには、その結末がぼんやりしていましたが、書き進むうちにあなたに何を書けばよいか、何をお願いすればよいか、わかってきました。ですからどうぞ最後まで読み進んでください。
まさか
ですから、私は日本人同士でも、日本人と中国人でも、相互に対立することなく、建設的な協力関係を築いてほしいと思います。
そろそろ本題へ
2005年1月28日に彼の訃報を聞いたとき、私は京都の家にいました。翌日、娘と滋賀県にスキーに行く予定がありました。Y元総経理の実家が名古屋にあると知って、私は彼の実家を訪ねました。そこに着くと、彼には私と同じく息子と娘がいることがわかりました。Yの家族と一緒に過ごしたその日は、私にとってこれまでの生涯で、最も辛い日でした。翌日、Y元総経理の家族と私たちの会社の幹部は、名古屋空港から上海へ飛びました。Y元総経理の奥様、息子、娘は彼の遺体を日本に戻し、私たちの会社は彼のために盛大な葬儀を行いました。
Y元経理の奥様は現在、名古屋工場で働いておられます。表面的には、Yの家族は、私たちの会社に感謝しているように見えます。が、彼女が他の人に「もう二度と中国には行かない」と言ったと聞きました。これを聞いた後、私は彼らのことをいつも気にかけています。表面的には平静を装っていますが、彼らが心の中で私たちの会社や中国に対して恨みを抱いていると感じます。まだ彼らの心の中の結び目を解くことができていないと感じます。
私が京都に戻ることが決まってから、再びY元総経理の子供たちのことを考えました。今、子供たちは私たちの会社や中国を嫌っているでしょう、憎んでいるかもしれません。しかし、いつの日か、彼らが社会に出て困難に直面したとき、彼らは父親が最後の日までどのように働いていたかを知りたくなるのではないでしょうか。そして、再び南通に来ようという気になり、父親が最後に働いていた場所を訪れてみたいと思うのではないでしょうか。
依頼事項
私は多くは稼いでおらず、大金も持っていませんが、今日持ってきた少額のお金でも、私の気持ちを受け取ってください。このお金を使ってYのために、何かをしてください。いつの日か、Yの子供たちが南通を訪れるとき、私たちの会社がより大きく発展しているのを見てほしいのです。
会社にとって規模を拡大し、利益を上げることは非常に重要な部分です。しかし、この過程で、個々が仕事を通じて有意義な生活を送ることも必要です。私は、中国の会社が成長する中で、各社員が楽しく働き、自身の人生の価値を実現できることを望んでいます。
最後に、あなたの健康と事業の成功をお祈り申し上げます。
2006年7月1日 Sheng
2006年7月2日 上海浦東発MU731、KIX(関空)行き
中国へ来るのは最後だと考えていた。記念に上海のリニアモーターカーに乗ってみたかったので、リニアの駅まで会社の車で送ってもらった。別れ際S総経理に手紙を手渡した。予定通りに事が進み私の東京生活、中国関連の仕事人生にピリオドを打つことができた。
さて、毎日通った東京駅近くの中国語学校では、15人ぐらいの先生にお世話になった。文章の添削ばかりたのむ変な受講者だと思われていたろうか。しかし最後の方になり、細切れのピースを繋ぎ合わせると、私がどのような意図の文章を書こうとしているかさすがにわかっできたようで、応援してくれた。完成したとき、皆で買ったと記念のキーリングをもらった。箱にはangel heartと書かれていた。上海からの帰路、飛行機に乗り込んで、ああこれですべて終わったなあと、そのキーリングをしばらく眺めていた。
(続く)
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