江蘇省常熟市、長江沿いの野猫口
前回ご紹介したように、今では、中国の治安のいい街ベストテンにでも入りそうな常熟。実は戦争の傷跡が残っている。
1937年8月、第二次上海事変が勃発する。すでに7月7日には北京郊外で盧溝橋事件が起こり、日中の戦いは全面戦争に発展しようとしていた。上海の街を火の海にした後、日本軍は首都南京攻略に向け、多方面から上陸作戦を敢行し、すさまじい勢いで進撃を始めた。常熟はその経路にあたる。長江南岸にいくつかの上陸地点あり、常熟上陸地点のひとつに、野猫口という場所がある。現在は常熟、南通とも長江下流域沿岸はほとんどが工場地帯となっているが、常熟野猫口には、かつての日本軍の上陸地点を示す石碑が立っている。
“国の恥を忘れるなかれ” 中国で毎年、戦争関連の記念日には繰り返されるこの言葉が、大きく刻まれていた。日本軍は1937年11月9日、野猫口よりやや下流、現在の蘇州市太倉の白卯口に上陸、そして11月13日に常熟野猫口に上陸した。早くも11月19日には常熟を落とし、虞山頂上に日本国旗が翻ったという。
沙家浜湿地公園
日本軍は常熟をなぎ倒し、進軍していったのだが、常熟側のレジスタンスの物語はそこから始まる。現市街の南東方向に“沙家浜”とよばれる場所があり、今はそのあたり一帯が自然公園になっている。常熟は東洋のベニスと呼ばれる蘇州と同じく、水郷地帯であり、もともと各所に自然のクリークのある湿地帯である。沙家浜もその一つで、水郷をめぐる手漕ぎ船が名物で、常熟の観光スポットとなっている。
背の高い葦の生い茂った湿地帯は、隠れ家として良かった。沙家浜で茶館をしていた阿慶嫂(アーチンサオ)は、この地を守る中華民国軍の兵の傷の手当をし、地下組織のリーダーと連絡をとり、彼らを水郷の各所にかくまった。日本軍に通じ誤情報を与え、日本軍を長く混乱させた。以上は京劇「沙家浜」という物語として残っている。
実際には阿慶嫂という人物はおらず、架空の人物だが、阿慶嫂のような役割をした女性が確かにいた、という。実在の阿慶嫂が、劇と異なるのは、京劇の沙家浜では阿慶嫂と地下組織のリーダーは、日本軍司令官を手玉に取り最後まで逃げおおせるが、現実の阿慶嫂は日本軍に囚われ、陵辱された上、惨殺されたという点である。
国家国防教育基地 沙家浜
京劇「沙家浜」の一部は、沙家浜湿地公園の特設舞台で毎日演じられており、公園内には阿慶嫂がやっていたという茶館も作られている。沙家浜は、抗日の歴史を今に伝える場所として、国家国防教育基地にも認定されている。公園の一角には戦闘機や戦車など、当時の武器が並べられている。武器の銃口はすべて、正確に日本の方角に向けられている。
受けた屈辱を忘れない、ということは、本当に、皆が望むことなのだろうか。そのことを考えたくてこの文を書いている。私に関して言えば、過去の嫌な思い出を、可能ならばすべて無きものにしてしまえれば、どんなにいいだろうと、常に考えてきた。そういう私は、人間として薄情者なのだろうか。Yを南通で失い1年。鬱々とした、後悔の念に、苛まれながら生きる生活に、私はケリをつけてやろうと思った。私ごときが後悔したところで、Yや、残されたYの家族に何の慰めにもならないからだ。そういう理由は至極もっともだと思った。
人は憎しみをかかえたまま生きてゆくことはできないか
人間というのは、復讐心や恨みを持ったまま生き続けていくことはできないはずだ。有名な赤穂浪士の話や、仇討の認められていたという江戸時代には、憎しみを忘れずに持ち続け、ついにその思いを果たすという類の話が多い。多くは美談になっている。ネガティブな思いは、前向きなやる気よりも長続きするとよく言われる。すべての復讐劇は仇討によって完結する。
当人も思いを果たして満足だろう。しかし問題は、失われた時間は帰ってこない。たとえばより高い視点から、つまり神のような存在からみて、それらかたき討ちを果たした人々の生きざまは、人間らしい“よい生”を全うしたといえるのだろうか。
そうではないと私は思う。冷静になってみれば、いかに不名誉だろうが、いかなる辱めを受けようが、忘れてしまえるなら、忘れるに越したことはないはずだ。パソコンならリセット、初期状態に戻すのがよい。それができたら苦労はしない、と言うだろうが、自分の中の理性ある部分の声を聞けば、終わったことは、なきものにしてしまうに越したことはない。少なくとも国が、国民に対して、受けた恥を忘れるなと80何年も、けしかけ続けることではないと、私は思う。
「ふりだしへ戻る」前に
私は京都で化学研究者としての生活を20年をおくり、たった1年半の間、東京で中国に関わる仕事をした。大切な友人を亡くした。それやこれやで、短期間で京都へ舞い戻ることになった私だが、このままなら後々まで尾を引くだろうと自分では十分承知していた。
ちょっとした思い付きがあり、京都へ帰任する前の3か月間、すべてにけりをつけるために、あることに没頭した。私の中ではそのことをやり遂げれば、すべてを精算でき、再びあの京都の生活に復帰できる、はずであった。
(続く)
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