中国5000日(13)江南福地、牛もいっぷく常来常熟

尚湖から虞山をのぞむ

常熟へ

 2012年2月、常熟での生活が始まった。
 常熟市は、現在では蘇州市の行政区になっている。正しくは蘇州市常熟というべきかもしれない。長江を挟んで南通市の対岸に位置する小さな街である。治安がよく、お金持ちが多い。街の中心部を外れると、裕福な上海人が週末をゆっくり過ごす別荘が建ち並んでおり、上海でひと旗揚げ、早期退職して常熟でゆったり暮らす勝ち組の小金持ちなども相当数いると聞いた。

江蘇省常熟とその周辺

江蘇省常熟とその周辺

 経済開発区があり、常駐の日本人も当時600人程度いたが、過去大きな事故はなく、死者も出ていない。タクシーに財布を忘れたが、見つけた運転手さんが、財布の中に名刺を見つけわざわざ連絡をくれたという、当時の中国では信じられないような話もあった。
 残念なことに、私が常熟を去った2017年、比較的若い駐在員が亡くなられたと聞いた。死因など詳しいことは、あえて聞いていない。

虞山と尚湖

 ほぼ平らな地形であるが、市の中心部に虞山と尚湖という、笹かまぼこのような形をした山と湖が対峙している。琵琶湖と淡路島のように、お互い形が似ている。古くから、この山と湖を目指し、人が集まってきて、自然に街が出来上がったのだろう。ほかの地域にあれば、そう目立ってもいなかっただろうが、長江下流域、特に南岸のだらだらした平野地域においては、虞山と尚湖は際立つ存在と言える。それなりの逸話、伝説の類があるはずだと調べてみた。内容的には、どこかで聞いたようなよくあるタイプの話だが、常熟の豆知識としてご紹介する。

常熟の虞山と尚湖
 太古の昔、中国の仙人が宴会を開いた時の話。仙人というと、日本人は老人しかも男性を想像してしまうが、中国の仙人はイメージとしては若く、むろん女性もいる。中国の宇宙船に嫦娥という名前がついており、これは月の女王様のような存在の仙人の一人。彼女が宴会に出席した。嫦娥の連れてきたお付きの侍女の中に、仙姑という娘がいた。一方、男性側の仙人の親玉は、道童という若者を連れてくる。間は省くが、結果その二人仙姑と道童が恋に落ちる。
 若い二人であるから、宴会が終わった後もこっそりデートを重ねるようになる。しかし中国の仙人は、いわゆる自由恋愛がご法度のようで、はたして嫦娥女王様に見つけられ罰を受ける。その罰というのが道童君は牛に姿を変えられ天宮追放、仙姑さんは生き物ですらない鏡にされてしまい、嫦娥の手鏡として使われることとなる。

道童くんと仙姑さん

 牛に姿を変えられた道童君は地上に降りてくる。上海あたりの海岸から上陸し、とぼとぼと西へ歩いた。探し当てたのが、豊穣の地常熟というわけである。疲れをいやすためにそこで横になりそのまま居ついてしまった。これが虞山。仙姑さんの方はどうかというと、嫦娥の手鏡となってからもやはり道童が忘れられず、結局ある日、嫦娥に向かって、自分は今でも道童のことを慕っていると言ってしまう。怒った嫦娥は、鏡を天から投げ捨てる。鏡である仙姑は、一条の光と化して地上に降り立つ。それが尚湖である。
 以来、長きにわたって、そして未来永劫、道童と仙姑は、ここ常熟の地で寄り添って生き続けていく、という話。

興福寺 in 常熟

 常熟にはまた、中国の他の地域に比べ仏教を信じる人も多いと聞いた。元旦、春節ともなれば、この街いちばんの古刹興福寺には多くの人が集まり、押すな押すなの大行列となる。元日の明治神宮、川崎大師あたりの混雑を思い浮かべると近い。

常熟興福寺の鐘

常熟興福寺の鐘

 興福寺といえば日本人なら阿修羅像で有名な奈良にある興福寺を思い浮かべる。常熟興福寺は何か関係があるのですかと日本からのお客さんを案内するたびに聞かれていたが、関係ありやなしや今一つわからない。
 地元の人に聞いた話だが、こういう言い伝えがある。常熟の興福寺の鐘は特に有名で、この鐘の音がまたすこぶる大きいらしい。古い昔、この鐘をついたところ、はるか海の向こうの日本までその音色が届いたそうである。常熟興福寺の鐘の音を聞いた日本人がこれはすごいということで日本にも同じ名前の興福寺を建立した、ということになっているらしい。
 虞山と尚湖の説話もそうだが、ここ常熟にはこのようにおおらかでほのぼのするような、悪く言えば“陳腐”な言い伝えが多いのである。
 そのような常熟であるから、その年の夏、中国全土で反日デモが起こり大荒れ状態となった時も、さしたる危険も感じず、仕事に没頭することができた。
 常熟でもデモがありましたと、後から写真を見せてもらったが、数十人がのんびりと常熟唯一の街南大路を練り歩く姿は、どう見ても何か言いたいことがあるという風情には見えなかった。

2012年9月 反日デモ in 上海

2012年9月 反日デモ in 上海

 そのような、半田舎暮らしをしていたが、実はその間に中国という国の本体は、大きく変わろうとしていた。2012年秋、第18回党大会。新しい党指導部が誕生した。私の中国5000日の生活は、ほとんどがその新しい体制の時代の下でのものとなる。

(続く)

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