南通から常熟をのぞむ
常熟は長江をはさみ、南通の対岸に位置する。現在、私は南通にいる。新築の南通大学職員宿舎の13階にある私の部屋は南向きで、数キロ先に低く並ぶ南通五山の隙間には、長江の水面と行き交う船の影がわずかに見え、晴れた日には、その向こうに常熟の街がうっすらみえる。
今なら、上海から南通は、常熟を通って、蘇通大橋を渡り来ることになる。蘇通大橋は2008年に開通したので、それ以前はこの稿の冒頭で紹介した旧式フェリーで長江を渡っていた。ともあれ、長江を隔ててはいるが、南通と常熟は、距離的には近い。
常熟も南通も日本人には馴染みのない都市であるが、南通関連のことが、よく知られた有名な小説の中に書かれている。井上靖の「天平の甍」である。
「船は新河に浮かぶと、瓜州鎮に出て、揚子江へはいり、東に下って狼山に到った。この頃から強い風が吹き始め、船は江中にある三つの島の周囲を旋回し続けた。」『天平の甍』 井上靖
遣唐使船模型(江蘇省揚州市大明寺)
6回の試みで、ようやく日本にたどり着いた鑑真の5度目のチャレンジの時である。鑑真がこの場所で遭難しそうになったという史実は、その他の文献にもある。現在は南通市の端に位置する五山は、鑑真の頃、長江に浮かぶ小島であったようだ。引用しておく。
“唐代中期·,狼五山在江中。天宝七载(748)六月,鉴真第五次东渡,船过狼山,在这里因风急浪高而旋转三山。这里的所谓三山,系指三组山。西边的黄泥山与马鞍山相连为一组,中间的狼山与剑山相隔不足百米为一组,东边的军山与中组相隔约500米,自成一组。
南通成陆 陈金渊著 苏州大学出版社 より
唐代中期に南通五山は長江の中にあった。天宝7年(748)、鑑真は日本へ向け5回目の挑戦で揚州を出発したが、南通付近で風と高波により船は三つの島の周囲を旋回した。ここで言う三山とは三組の島という意味で、連なる黄泥山と馬鞍山の二つが一組、中間の互いに100メートル隔てる狼山と剣山が一組、そこからさらに500メートル離れた軍山が一つで三組目を形成する。
この時748年の航海で鑑真は、長江から外海に出た途端、南に流され、福建あたりに流れ着いたそうだ。
再び 2004年年末へ
さて私の話は前回、せっかく常熟での新生活が始まるところまで来たが、再び20年前の2004年に戻る。当時、私は某大企業の海外事業部の中国担当として東京に単身赴任していた。中国現地法人への技術移転、中国工場の立ち上げが主な仕事であった。20年の研究所生活で、生産や営業にはあまり知った人がおらず、生まれて初めての単身赴任で、最初は居心地が悪かった。それだけに現地法人の総経理がかつての研究仲間、同い年のYに決まった時は嬉しかった。
同い年ではあったが、私は浪人して大学に入っていたので、入社年度はYの方が早く、先輩として付き合っていた。研究時代、部署は違ったが、研究分野が似ていたため、いろんな機会に顔を合わせ、何度か二人だけで飲みに行ったりもした。豪放磊落と言えばいいのか、研究者らしからぬさばさばした性格の持ち主で、私とはタイプが異なり、中国現地で総経理兼工場長というのも適役のように思えた。
私が研究を離れる数年前に生産部門に異動になっており、すでに移動先で工場長になっていた。南通赴任前、東京に来てくれた時、久しぶりに痛飲した。知ってる中国語は「安全第一 (an quan di yi)だけやね」と、相変わらず豪快に笑っていたのが頼もしく、また不安でもあった。Yを南通に送り出して三ヶ月、久々に南通へ出張した。もちろんあちらの責任者とこちらの責任者、電話では毎日のように連絡するが、大切な打ち合わせは顔を合わせて、という時代である。Yは多少痩せたようには見えたが、元々太っているのでちょうど良い具合だとは本人の言。中国生活も何の問題もないかのように見えた。
週末、二人で南通五山縦走に出かけた。彼も初めてという。五山といっても一番高い狼山が100m足らずであるから、多少凹凸ある散歩道のようなものだ。軍山からスタートし、剣山、そしてもっとも人の多い狼山頂上からは、一人乗りのリフトに乗った。リフトは馬鞍山の中腹に着く。今このリフトはない。スキー場のリフトと同じものだが、かなり高所をゆく。相当危険だ。馬鞍山は丘といってもよい小さな山、黄泥山はその名の通り、土の塊り程度の山だが、頂上に気象レーダーがあるのでやっとここが山だとわかる。この領域には今は入れない。当時も人が立ち入ってよかったのかどうかわからない。黄泥山の先は視界が開け、長江の突堤につながっていた。
終点近くに東屋と石碑があり、鑑真五回目の渡航に関することが書いてあった。東屋は鑑真東渡遇険記念塔といった。Yも私も、こんなところで、聞き知った鑑真の名に出逢おうとは思っておらず、新発見でもしたかのような気分でいた。当時、たいして中国語がわかったわけではないが、私は石碑の文字を一つ一つ目で追っていた。その間、Yはその先の細い突堤を一人で歩いて行ったようだ。気がつくと彼はずっと先の突堤の先端、灯台のあるところまで行っていた。すぐ戻ってくるだろう。私はその場で待っていた。彼が戻ってくるまでけっこう待ったように記憶している。日本を離れて二ヶ月、激務の隙間にこの場所にやってきた。川とも海ともつかぬ広大な長江の風景を前に、Yはあの時何を考えていたのだろう。
ふりだしへ
一週間後、日本でYの訃報を聞いた。
5000日間、中国で暮らしその間長江のこちらとあちら、そしてまた現在こちら側、南通にいる。1300年前の鑑真のように、私は前に進めず、ぐるぐる回っているだけである。それはもしかしたらYが、私をこの場所に引き寄せているからかもしれない。そう、思うこともある。
(続く)
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