中国5000日(4)ガンホーの時代

深夜まで仕事

80年代アメリカ映画「ガンホー(GUNG HO)」

 「ガンホー(GUNG HO」という映画があった。86年のアメリカ映画で、アメリカの地方に誘致された日系自動車工場が舞台。その中で、アメリカ的な仕事観を持つ従業員と日本の経営陣が対立して、というようなコメディであった。結末や細かいストーリーは、ほとんど忘れてしまったが、印象に残っているシーンがある。

映画「ガンホー(GUNG HO)」から

映画「ガンホー(GUNG HO)」から

 日本人幹部が日本で研修を受けているシーンである。ワイシャツとは少し異なる白い服を着ている。今の若い人は知らないかもしれないが、かつてオウム真理教というカルト宗教団体が引き起こした大事件があった。そのオウム真理教の信徒が、修行のために来ていた白い服といえばある程度の年代の人ならピンとくる。劇中の研修生は、それに似た特別な服を来て訓練を受けている。

ジ、ジ、地獄の特訓ってか

 この研修シーンにはモデルがあった。管理者養成地獄の特訓合宿というもので、80年代毎日のように業界新聞に大きな広告が掲載されていた。プログラムの一つに、闇夜のカラス訓練というのがあった。研修の最後に参加者それぞれが作った自己啓発目標を、人通りの多い駅前で大声で発表するというもの。恥ずかしいという感情を抑え、闇夜のカラスになったつもり、つまり周囲の人間は自分にあえて注意を払わないという状況で、しっかりと発言する訓練であった。

闇夜のカラス

闇夜のカラス

「さすがにこれは、恥ずかしいだろうなあ」と思った。
 その訓練に取材したであろうさまざまな訓練を日本人が受けている場面から前述の映画は始まる。今なら、日本人が見ても異様であろう。当然、アメリカ人が理解できるものではない。日本人が特殊な服を着て、なにやらお札のようなものをたくさん付け、大声で何かを叫んでいる。その他の場面でも、当時の日本人の仕事に対する考え方が、うまく映像化されていたように記憶している。
  実は、その地獄の特訓と同じ団体の主催する10日間英語集中合宿というのに参加したことがある。もちろん参加者も講師たちも、特別な服を着させられることもなく、駅前で英語で演説しろというわけでもない。単に10日間英語漬けの生活をしましょうというもので、趣旨は良いと思い参加した。

灰皿一個で大騒ぎ?

 参加者の中に英語レベルが私と同じぐらいの女性がいたので、よくペアで練習した。ある程度打ち解けてからゆっくり話す機会があった。有名自動車会社の開発部門にいるという。当時の、流行語の一つともいえた過労死が、
「けっこう多いんですよ」と、
お天気の話でもするようにさらっという。
「朝、みんなが出社したら、部屋で誰かが死んでたなんてこともありました」
自動車のモデルチェンジは年一回、細かいマイナーチェンジは随時という時代だ。そんな時代、彼女いわく
「例えば社内コンペで灰皿のデザインが一つ採用されただけで、みんな大騒ぎなのよね。」
わからないことはない。同じ開発の仕事で苦労していた当時の私には、例え花形であるメインの開発でなくとも、やはり社内、競合会社を問わず争いは熾烈であった。
続いて彼女の口から出た、次の言葉を今でもはっきり覚えている。
「男の人ってバカみたいね。」
先に、お天気の話でもするようにと言ったが、その心は、そういう日本社会はくだらん、ということを強く言いたかったのだと、今にして思う。

化学実験する男性

Chemist working in lab

 30代の頃、仕事漬けの生活であった。仕事が化学品の研究開発であったので実験が主な仕事となるが、化学反応は人間の生活ペースでは進んでくれない。若い研究者は、六時七時にいったん帰宅し、食事後研究所に戻り、引き続き反応を見守り実験、考察を深夜まで続けるという者が多かった。そういう生活が続くと、やがて帰宅するのも面倒になり、何日も会社に泊まり込むようなことも常態化する。宿泊所があるわけでもない。実験室の床に段ボールを敷きつめ、仮眠する。そういう生活の研究者がけっこういた。さすがに過労死はいなかったと記憶している。ただ私は大袈裟でなく、よく生き残ったという気がする。過労死とは言えないものの、周囲ではけっこう亡くなった方が多い。

企業戦士たち

 入社時指導してくれたリーダーは、深夜原付バイクで帰宅時、電信柱に激突して50歳であっさり亡くなった。30代後半の頃、私の開発品をセールスする担当だった営業課長は、仕事上飲酒の機会が多かった。よく飲みに連れて行ってもらったが、
「おれはな、この会社でもう一つおおきな仕事をしてみたいんや。協力してくれな。」
その熱い言葉が好きだった。毎週のように顔を合わせていたが、ある時東京出張時に飲酒後、脳溢血で倒れ突然亡くなった。45歳だった。課長職の時は三部署集まった大部屋が職場で、課長三人が隣の小部屋で席を並べていたが、私の右隣に座っていて、何かとよくしていただいた一つ年上の先輩課長は、癌の長い闘病の末、40代で亡くなった。長い闘病生活であったが、ある日突然会社に現れ、見間違うようにやせほそった身で、それでも部下の研究者に、頭の良い彼らしく、理路整然と今後のことなどについて、話をして帰っていった。程なく亡くなったという知らせを受けた。

ビジネス戦士たち

 部長職の時、会社の将来計画を作るために優秀な若者が数名集められ、私はそのエリートグループの横で書記のような仕事をした。30代前半のおそろしく頭の切れたメンバーの一人は、グループ解散の数年後、病を得て亡くなった。同じく部長時代、部内でもっとも人がよく、また頼りになった私の部下は、私が東京へ転勤になった後、別の部署へ行き、ある時、会議中に気分が悪いと言って席を立ち、そのまま帰らぬ人となったという。これも脳出血だったらしい。彼も45歳だった。

 別に私が死神で、私のせいで周囲の人間が次々死んでいったというわけでもなかろう。そういう時代だったのだ。24時間働けますか、が合言葉。生活時間のほとんどが仕事に費やされていたから、今思い出の中にある彼らは、ひとりひとりが、討ち死にした企業戦士のように、私には思い出される。

そして私は?

 そこから逃げ出すことはもちろん簡単だった。のんびりできる部署はいくらでもあった。しかし、逃げださず働き続け、それでも身体や精神のバランスを崩さず生き残ったものが、真のエリートなのであり、楽をしようとするのは負け犬だ。そういう価値観が時代にあった。私もその価値観の中で、頂上を目指していたのかもしれない。
 その後、一つの区切りが訪れた。そのあたりは個人的なことであるから書かない。
 話は飛ぶ。2004年私は会社から追い出されるようにして、中国関連の仕事に従事することになる。そして数ヶ月。運命とでも言えばよいのか。中国で二人の日本人の同僚を失うことになる。以後、20年間、私が中国に居座った主な理由は、この辺りにもあった。

(続く)

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