柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺(正岡子規)

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」 秋である。良い季節になった。色鮮やかな柿をほおばる。すると、まるで私が柿を食べるのを待っていたかのように、どこからともなく鐘の音が聞こえてきた。法隆寺の鐘に違いない。こういう時、生きている実感が沸き起こってくるというものだ。
 日本人で知らない人はいない有名な俳句です。松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」もそうですが、あまりに有名すぎて、たいていの日本人にとっては、どこがどうすごいのかよくわからないぐらいになっています。
 それほどまでに、日本人の心の中に融け込んでしまっているという言い方もできると思います。この俳句を「日本人教師」の観点で鑑賞してみます。

この句が詠まれた時期について

 優れた文学作品は、本来その作者の人生や生活と結び付けて解釈すべきではないとは思います。が、この作品は正岡子規の34年の短い生涯の中で、おそらくもっとも豊かな感性を持ちえた時期に作られています。(子規28歳時の作です。)

  • 1895年4月 日清戦争に従軍記者として参加、満州に渡る
  • 5月 大連から船で帰国の途中、喀血。神戸病院に入院、生死の境をさまよう。
  • 7月 一命をとりとめ須磨保養院で静養 この時期に「六月を綺麗な風の吹くことよ」の句を詠んでいる。
  • 8月 故郷伊予松山へ、大学予備門の同期である夏目漱石と同居
  • 10月 漱石と別れ松山を発つ。旅の途中、結核から来るカリエスを発症し再び須磨で静養
  • 小康状態となり大阪、奈良に遊ぶ。

 この奈良行のとき詠まれたものが「柿食えば…」の句なのです。結核という不治の病、その中でカリエスという激痛をともなう病気を併発した子規が、死の予感を感じつつ、しばし穏やかに奈良の秋を楽しんだ日、大好物の柿を食べた。まさに生きているという実感を味わいながら詠んだ句なのです。

音象徴(おんしょうちょう)から見る

 柿食えば、鐘が… ここまででKAKIKUEBA、KA…、子音Kが四つ。このインパクトは大きいですね。Kの音はいわば「喉の奥の詰まりを破って出す音」、鋭さ、硬質感、ドライなイメージに満ちあふれています。黒川伊保子さんの「日本語はなぜ美しいか」の「K」音の解説から抜粋します。

Kは、喉の奥をいったん閉じて、その接着点に強い息をぶつけ、ブレイクスルーして出す音である。(喉の奥だから)本来、舌とはくっつきにくい場所である。そこをあえて接着するので、喉周辺と、舌の付け根周辺の筋肉が緊張して、かなり硬くなる。ここに強い息をぶつけ、喉の接着点を破って出す、いわば喉の破裂音がKの音なのである。(中略)すなわち、硬く、強く、速く、ドライ、さらに丸さを感じさせる。カラカラ、カンカン、カチカチ、キラキラ、キリキリ、クルクル、ケラケラ、コロコロ……

「日本語はなぜ美しいのか」黒川伊保子著 集英社新書 p132から

 K四音の硬さ、鋭利さ、そこから生まれる緊張感が瞬間的に生み出されます。そしてこの句のすごいと思わせるところは、その緊張感が「HOURYUUJI(ほ~りゅ~じ)」という長音の繰り返しで、つまり再び瞬時に緩んで全体を安定させ一つの世界を完結させていることではないでしょうか。

硬くトゲトゲのK音の連続を長音×2の土台で調和させる

硬くトゲトゲのK音の連続を長音×2の土台で調和させる

かきくえば、ね…」の強烈なK音連続を、中和しまとめ上げる役目を法隆寺(ほうりゅうじ)という優しい音が担っています。ですからここはやはり法隆寺であるべきで、建仁寺や金閣寺であってはいけないのです。

 さらに言えば「KAKIKUEBA」の母音構成が「AIUEA」と「あいうえお」のうち四音を使っていることも調和へ向かう効果を示しているとみてもいいでしょう。

「柿食えば」と「柿食うと」

 「日本語教育」の観点からのもう一つの観点は「柿食えば」の「ば」、つまり条件節を作る表現。ここでは「と、ば、たら、なら」のうちこの句で使えそうな「と」と「ば」の比較を考えてみましょう。

「~と」と「~ば」の比較

 まずは教科書的知識の復習です。

  • ○ 春になると 桜が咲く 〔必然〕
  • ○ 春になれば 桜が咲く
  • ×  夏になると 海へ行く 〔確定〕
  • ○ 夏になれば 海へ行く
  • × (もし)雨が降ると 中止です  〔仮定〕
  • ○ (もし)雨が降れば 中止です

 前件が成立すると100%後件が成立する〔必然〕の関係は両方成立、必ず起こる事象の成立が確定したら、という条件〔確定〕は「~ば」のみ成立。「もし~」をつけても言える〔仮定〕も「~ば」のみ成立します。

「と」「ば」例文

「と」「ば」例文

 まとめると

「と」は必然、「ば」は必然、確定、仮定

「と」は必然、「ば」は必然、確定、仮定

「~と」「~ば」焦点の違い

 上で見たように「必然」つまり「恒常的に成立する依存関係」については「と」「ば」両方が使えるのですが、この二つの違いはどこにあるのでしょう?それは焦点、つまりフォーカスされる部分が異なります。

「と」は後件に焦点、「ば」は前件に焦点

「と」は後件に焦点、「ば」は前件に焦点

 「~と」では後件に言いたいこと、つまり焦点があり、「~ば」では前件に焦点があります。

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」と「柿食うと鐘が鳴るなり法隆寺」

 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の「ば」の使い方は正確に言うと上の「春になれば桜が咲く」とは異なります。「春になれば」は未だ起こっていないことですが、「柿を食う」動作は過去のことです、「メールを送ると、返事が来た」のように「連続動作」を表す用法に近いと言えます。

 そのあたりの議論は別の機会にするとして、「柿食えば~」と「柿食うと」を比較するならやはり「ば」は前件に焦点、「と」は後件に焦点があると感じるでしょう。

「柿食うと」と「柿食えば」

「柿食うと」と「柿食えば」

 「柿食うと鐘が鳴るなり法隆寺」だと後件焦点というか、作者、柿、鐘、鐘の音といったモチーフが平等に列挙されていてやや陳腐な印象を受けるのに対し、「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」とすることで作者と柿、その柿の色や硬い表面のイメージがクローズアップされ、背景に退いた鐘と奈良の風景の中で鐘の音が全体を包み込むように響きます。そのような立体感が生まれてくるような気がします。

 

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