「景色」「風景」「光景」 三省堂国語辞典の語釈
三省堂国語辞典の説明は、動的なもの静的なものを表現できるかどうかという観点でこれら三つの言葉の用法上の違いを説明しています。
- 「景色」:〇野山の景色、×子供が遊びまわる景色
- 「風景」:〇野山の風景、〇子供が遊びまわる風景
- 「光景」:×野山の光景、△子供が遊びまわる光景、〇ライオンがシマウマを襲う光景(動的かつ印象的なもの)
まとめると、
静的(静止画) | 動的(動画) | ||
景色 | 〇 | 眺め | |
風景 | 〇 | 〇 | |
光景 | 〇 |
確かにわかりやすいことはわかりやすいのですが、これらの語には、静的、動的という観点以外にも、ニュアンスの違いがあり、なかなか一筋縄ではいかないようです。
上の3つ以外の類語「情景」も含めて実際に使う用例中心に違いを考えてみました。
「美しい風景」
「風景」が眺めを表すいちばん客観的かつ一般的な表現と思う人が多いかもしれませんが、実際の使われ方は「好ましいもの」「見て楽しいもの」に対して使われる場合がほとんどです。
「△ゴミ捨て場の風景」というような言い方は普通しません。「風景」には「美しい」という形容が似合います。
風景 | 目を楽しませる、好ましい印象を与える眺め |
「目をみはる光景」
「動的な眺め」というよりも、人の注意を引きつけるような眺めであることが必須条件ではないかと思います。
その目で見たものが、心に響くことで「光景」となります。
光景 | 注意を引き、心を動かす眺め |
「ひとつの情景がある」
「心に直接響くようなの眺め」とでも言えばよいでしょうか。
私が過去見た文章の中で、最も効果的にこの「情景」という言葉が使われていたくだりをご紹介します。
「坂の上の雲」(司馬遼太郎作)という長編小説があります。主人公の秋山真之は日露戦争時に参加した軍人さん。ラストシーンで、彼がすでに故人となった友人の正岡子規の家を尋ねる場面はタイトルに書いたような「ひとつの情景がある」という言葉で始まります。
文章は以下のように続きます。
ひとつの情景がある。
連合艦隊が横浜沖で凱旋の観艦式をおこなったのは十月二十三日である。その翌々日の朝、真之は暗いうちに家を出た。
途中、根岸の芋坂とよばれているあたりの茶店でひとやすみした。
この朝、
— 根岸へゆく」。
と言いのこして家を出たのは、子規の家にその母と妹をたずねるつもりだった……
「坂の上の雲」(司馬遼太郎)ラストシーン「雨の坂」から
上の写真は本木雅弘さん演じる秋山真之が早朝、正岡子規宅へと出かける場面ですが、彼は正岡家に行き、その後正岡子規の墓を参る。
上の行動のすべてが「一つの情景」なのです。
「情景」とはつまり、人の心により強くうったえかける場面であるといえます。
情景 | 直接人の心に響き、人を動かす場面 |
「心に描く景色」
「景色」については、まず第一義的には冒頭の国語辞典の解釈のように「風景」とほぼ同義であるが「動的」な眺めには使えない「子供が遊びまわる(〇風景/×景色)」という風にとらえることができます。
ただビジネス用語のビジョン(Vision)に似た意味で使われることがあります。以前の記事にも引用させていただいたのですが、有名なマーケッターである森岡毅氏のコメントの中にも使われています。以下に再度掲載します。
「それは日本の中にある。日本人ならば、なんとか日本のために、ここをどうにかしたいと思うっていう、なんか、そういう仕掛けを自分たちが携わって、なんかうまくいくことができたならば、あ、なんか、あー、いろいろあっていっぱい、し、失敗したけど、まあよかったのかなって思って、たぶん死ねるだろうな。って思えるところが、今日がんばる力になるって、わかりますかね?」
「わかります、わかります。」
そんな森岡の志は大学時代に経験した阪神淡路大震災が大きく関係していた。
「もう、本当に数日前、一緒にお茶飲んでた人が、死んだんですよね。めちゃくちゃ能力が高くて、めちゃくちゃいい人だったんですよ。
「わ!人って死ぬんだ。」っていうこの理不尽ですよね。あの、死ぬのが怖いんじゃなくて自分が何もなさずに、死ぬのが怖い?何もしなくても人生終わるんですよ。
「人はこんな風に死ぬんだ」って言う経験を若いうちにされたことが、今のこの、「死ぬ時に」っていう、その気持ちにつながっているんですものね。
「そうですね、このせっかく生きてるんだから、なんか生きてるうちに、自分が生きた証って言うものを、残せるかどうかわからないけど、残すために悔いのない1日を過ごすっていうって言うことが僕の原点です。なぜならば、あの、生きてることが奇跡だなあって、あの時に思ったからですね。ま、失敗しない人生の方が、よっぽど大きな大失敗だって、理屈じゃなくて心底思えてるって景色ってのがあるんだっていうこと。自分の特徴だっていうところをうまく活かしながら、その目的を諦めずに、えー追いかけていく。この中で何かがやっぱり見えてくる、新しい景色が見えてくるっていうことの、私もその連続だった、ですね。」
目的を諦めずに追いかけることで、新しい景色が見えてくる。森岡氏の言葉の中で「景色」は「目標」であり「展望」なのです。
例えば、次のような言い方も可能でしょう。
「心を決めた彼女には、目の前の風景とは異なる景色が見えていた。」
思い描くあるべき姿を表現しようとする時は「風景」よりも「景色」という表現が似合っています。
まとめ
以上まとめてみました。
「景色」について補足
上のまとめで「景色」は比喩的に「心の投影図」のようなものまで表せるとしました。なぜ「景色」がそのような深い意味合いを示せるのかについて考えていた時におもしろいことがわかりました。
「景色」の語源についてです。「景色」の語源は元々、古い中国語である「気色」だったそうです。「気色」とは「それとなく感じることができる様子」というような幅広い意味の言葉(現代中国語の「气色」は血色、顔色ぐらいの意味ですが…)でしたが、日本に伝わってから「自然を描写する景色(けしき)」と「人の心を描写する気色(きしょく)」に分岐したのだそうです。
現代日本語では「景色」は通常では自然のみを描写する言葉になっていますが、比喩表現などをするような、特殊なきっかけをあたえてやると、古中国語の「気色」の意味がよみがえってきて、人の心に描かれた架空の展望、目標や夢を表せるのではないでしょうか。
というのが私の妄想でした。
〔以上、三省堂国語辞典第八版、日本語はこわくない(飯間浩明著)PHP、新明解語源辞典などを参考にさせていただきました。〕
コメント