島根県安来市の和鋼博物館で鉄の歴史について考えている。
日本の鉄作りの聖地である島根県安来の製鉄技術は、朝鮮半島からもたらされたという説が有力である。ここでは鉄の生産の伝播経路をその発祥の地に遡ってたどってみる。
アイアンロードの起点
以下は2020年1月にNHKで放映された「アイアンロード~知られざる古代の道」の内容を要約したものである。鉄を大量生産することに成功した人類がその技術をどのように使い伝えていったかという壮大な物語である。
紀元前17世紀ヒッタイト
人類が初めて接した鉄は宇宙から隕石の形でもたらされた。そして初めて鉄を自らの手で作ったのは、発掘された地層から判断して紀元前24~23世紀のことであるという。
場所は今のトルコ、中央アナトリアの小村デミリ、デミリとは日本語で「鉄の村」という意味で、現在でもデミリに住む人々の半分は鉄にちなむ姓を持っているという。
その後この中央アナトリアで紀元前17世紀に一大帝国を作りあげたのが「ヒッタイト」。彼らの王国、彼らが大量生産した鉄こそが、後にヒッタイトが当時の大国古代エジプトを破るほどの武力をもつにいたる原動力であり、2000年弱の年月を経て遠く極東の日本にまで鉄づくりが伝わることになった「鉄の道」の起点であり原点なのである。
エジプトももちろんそうだが、古代文明は大河の流域に栄えた。しかし、ヒッタイトの遺跡は荒野と呼んでよいような場所にある。実は、彼らはあえてそのような場所を選んだのである。
季節風の吹きすさぶ荒野こそが、彼らを当時としては世界で唯一の鉄量産国にしたという。ヒッタイトの製鉄跡は山の斜面のさえぎるもののない岩場にあるという。立っていられないほどの季節風が常時吹きつけることで、製鉄の際の高温を実現するための酸素供給が可能だったらしい。
厳しい環境を逆手に取り鉄製武器をそろえ、青銅器しかもたなかったラムセス2世をカデシュの戦いに破ったのが紀元前1285年ごろ。
繁栄を誇ったヒッタイト王国が謎の消滅をするのが紀元前12世紀であった。
紀元前8世紀スキタイ
ヒッタイトが歴史から忽然と消えたのが紀元前12世紀。滅亡の理由は「海の民」による征服説、内政の乱れによる自滅説などあるが、本当のところはわからない。
ヒッタイトは消えたが製鉄技術は生き残った。鉄作りの技術がコーカサス山脈を越えたのが紀元前10世紀、そして鉄は紀元前8世紀のスキタイの武器として再び歴史にあらわれる。
今のウクライナにビルスクヒルフォートという遺跡がある。全長35キロの城壁に囲まれた巨大な都市は、同時期のギリシャアテネの4倍以上の規模という。
ヒッタイトはやたら強かった。ギリシャからは「野蛮人」と恐れられた。そしてヒッタイトには鉄製の武器に加え、もう一つの決定的な強みがあった。
その強みとは「馬を自在に操る鉄製のハミ」である。ハミとはつまり自動車におけるハンドルのように、馬を自在に操ることができるものということだ。要は鉄製のハミをもって初めて人間は馬を自在にコントロールし得る移動手段として使うことができたということだ。
アイアンロード、東へ
鉄を生産するスキタイが、効率の良い馬という移動手段を得るとどうなるか?現在のウクライナからであればユーラシア大陸の北の山岳地帯の麓にあたる草原地帯を、製鉄のための火力となる木材を消費しながら東へ進んでいけばよいことになる。そのルートは後のシルクロードよりも北になる。
事実彼らは騎馬民族となり東へ東へと進んだ。
二手に分かれ「匈奴」「漢」に
東へ進んだ彼らは、ある所で二手に分かれる。
そのまま東へ進んだ者たちが、長く中国を悩ませ「万里の長城」まで作らせた北方騎馬民族「匈奴」となる。
そして南に進んだ者たちの名残と思われる村が四川省にある。その名も「鉄牛村」
四川省鉄牛村の人々は、現在でも「鉄牛」と呼ばれる粗鋼を神のようにあがめ、祈りの対象としているという。
南へ進んだ者たちはやや温和な人々だったのだろうか。彼らの鉄が起こしたのは中国大陸における
である。
彼らの鉄は農具としておおいに利用された。が、やがて北からの匈奴の強靭な鉄の武器に対抗するため、漢の劉邦も新たに改良した強靭な鉄製の武器を量産した。そして、ようやくのことで匈奴を追い払うことができた。
中国大陸における鉄利用は、始めに農業用の平和利用、ついで戦いのためという順ではないか。
アイアンロード終着点、日本
そしてアイアンロードは朝鮮半島から海を渡り、終着の日本に到着する。
2000年の長い旅を経て、たどり着いた終着駅が安来の良質の砂鉄ということになる。
それにしても、
以前、稲作技術のルーツと日本への伝搬について書いた。
コメント