ふと目にしたツイッターのつぶやき
ぼんやりとツイッターの投稿を眺めていて、ふと目についた記事が頭から離れなくなった。次のようなものである。
エリックc.という人がどんな人か知らない。日本に長く住む外国人のようだが、そういう人のふりをしている日本人のようにも見える。
日本の民主主義
1人が死ねば、99人が幸せでいられるのと、100人が少しずつ傷つき、かつリスクを分け合うのとどちらが正しい選択か。こういった問いに、たとえば多数決で結論を出すなら一瞬で結論が出る。が、民主的な解決を図ろうとするなら時間がかかる。事実を精査し、細かい状況を把握したうえで更に議論を重ねた上で結論を出さなければならない。それは時間がかかる作業であるし効率的ではない。しかもこのような問題には一般的な解など存在せず個別に考えなければならない。たぶん民主主義とはそういうものなのだろう。
日本はまだまだ民主主義発展途上国ではないか。議論が紛糾した時に「ここはひとつ、民主的に多数決で決めましょう。」というような言い回しをすることがある。「民主的=多数決」という人間が多いということだ。
そもそも日本人が民主主義という言葉に接したのは明治の開国以後のことだ。民衆の声が国家の運営に反映されるようになるには、そこからさらに時間がかかった。大正デモクラシーなどといって、一時的に民の声が力をもちかけた時期もあったが、戦争へ向かう過程で民主化への流れは逆行した。結局、民主主義への転換は敗戦後、アメリカ駐留軍の民主化教育を待たねばならなかった。日本の民主主義の歴史は浅い、しかも欧米のように市民革命を経て自ら勝ち得たものでもない。民主化教育というのも付け焼刃的なものにならざるを得なかった、のかもしれない。
私にとっての民主主義
筆者は1957年生まれ。小学校に上がったのは1963年である。第二次世界大戦が終わったのが1945年であるから、終戦後のいわゆる“新しい”ピカピカの民主化教育を受けた世代といえる。民主主義について先生から説明を受けたのは小学2年生あたりではなかったか。今でもしっかり記憶に残っているのは教える方もある程度は力が入っていたに違いない。私の先生が教えてくれた民主主義とは
- 1.よく話しあうこと
- 2.多数決の原則
- 3.少数意見の尊重
であったと思う。「多数決」や「少数意見の尊重」という言葉は人生で初めて聞く語であるから、その後クラスで流行語のように皆がいろんな機会に発言していたと記憶している。先生はよく「少数意見」の発表を促していたように思う。しかし、少数意見が採用されることはなかった。
もちろん、押しの強い人間、喧嘩の強い人間、あるいは教師の一言が全体の意見をひっくり返すことはあった。社会に出てからも同じようなものである。しかしそういうものを「少数意見の尊重」とは言わない。
というわけで、いわゆる本物の民主主義とは何かということを、私は知らずに生きてきた。大部分の日本人もそうに違いない。世の中多数決で決まるのであるから、とりあえず多数派についておけばいいだろうと、ろくに考えずこの年になるまで生きながらえてきたように思う。
ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー再び
先日、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という本を読んで感銘を受けたという記事を書いた。あの時はエンパシーという言葉から人の立場に立つことの難しさについて感想を述べた。
が、もう一つ大切なことを学んだ、というか考えた。おそらく民主主義とは何かということに対する回答に近いのではないかとその時思った。
本の中で、筆者は主人公である中学生の息子を連れ、地域の市民支援団体が主催する路上生活者(ホームレス)の保護運動のボランティアに参加する。支援団体の責任者である友人が言う。
「今年は路上生活者が多い。緊縮財政で、自治体は何の支援もできなくなっているから、民間がなんとかするしかない」
英国は保守党政権が続いている。サッチャー以来の新自由主義による小さな政府による国家運営が続いているのだろう。それはそれでよい面もあれば悪い面もある。ただし福祉の充実は見込めない。英国国民はもちろんそれを承知で保守党政権を選んでいる。
「国が機能しない部分が出てきたのなら、住民たちが善意でやる」という発想が、英国にはあるという。だから緊縮財政なら、政府が取りこぼすであろう弱者救済は民間で補える分は補おうとする。日本人には希薄な発想である。
国民によってえらばれた代表者が政策を決める。しかし多数決で選んでしまったらそれで終わりというものではない。出てきた政策に不備があれば、文句を言うだけでなく、では皆で協力して解決しようという気概がある。一人一人が常に政治、あるいはコミュニティへの参画意識をもって何をすればいいのか考え行動する。そういうしっかりした“個人”の確立というものが民主主義の前提にあるのではないかと思った。
蛇足ながら、多様性などについて
ここまでで民主主義に関する私の気づきの話は終わりである。が、蛇足ながらもう一つ
英国は大人なのだ、と私は思った。逆に言うと日本の国民や民主主義はまだ成熟していない。英国や民主主義先進国に学ばなければならないことはたくさんある。
私が中学生の時、つまり半世紀ぐらい前、英国はすでに経済的に斜陽国であった。社会科の先生は、例えば蒸気機関車や地下鉄を世界で初めて走らせたのはイギリス人だ、ロケットを初めて打ち上げたのもイギリスなんだ、しかし今後衰退していくだろうと教えてくれた。
私は日本の経済成長とともに成長した世代である。憧れの対象と目標は常にアメリカであった。日本のGDPがアメリカに次いで世界第2位になったのは1968年。日本に抜かれていったフランス、イギリスはさぞ悔しかろう、と考えたのは日本だけかもしれない。すでにヨーロッパは成熟の時代に入っていた。
現にバブルがはじけ日本が低成長期に入った頃の90年代、経済的には袋小路に入り込んだような日本社会では、これからは心の時代とよく言われた。が、この30年、我々は心を豊かにすることが、或いは個の生き方の確立なりが、できただろうか。現在の日本は、もしかしたら十分背が伸びた高校生が、急にこれまでのように身長が伸びなくなったといって悩み続けているような“とっつぁん小僧”のようなものではないのか。
私たちは新しい尺度を求めていかなければならない。
「脱成長」というキーワードもはやりだ。確かに「経済成長」のみを追求することが人々の幸せにつながらないことは、身をもって証明済みである。かといって成長を止めて過去に戻るというのも何か人間の本性に反する気がする。
上のことに関して、私自身の考えはまだない。ただこの地球上にはまだまだ多様な人間が、それぞれの思惑をもって生きていることを私たちはまず尊重しなければならないと思う。多様性を尊重する心をもつとともに、積極的に異文化を受け入れたり理解したり、学ぶことを続けていく限り、人はどこかで最適解に向かって進んでいく力を得るに違いないと思う。島国日本の私たちは、よりグローバルな視野に立って、世界の多様性を学ぶことからはじめよう。
さもなくば、たとえば、欧米人の仮面をかぶってツイッターにそれらしきことを書くニセ欧米人の意見にコロッと乗せられて悩むことになってしまいかねない。
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