多賀城から塩釜へ。
塩竃神社
国府多賀城駅から塩釜駅へはJR一駅の距離である。塩釜駅から塩釜神社へ向かう。(本当は塩竃だが、以下塩釜と書く)鳥居をくぐり長い階段をのぼってゆく。鶴岡八幡宮を思い出す作りである。鳥居の傍に石版のような硬い素材上にスケッチの複製が展示されているのが目に留まった。やや離れた高い位置から長い石段が誇張された塩釜神社の絵である。
写真というのは、見たままを写すように見えて、実は遠近感を大きく損なってしまう。3次元のものを2次元に移し替えるのであるから当然といえば当然なのかもしれない。現場に立って自分で撮った写真と見比べてみても、その石板上の画の方がはるかに実物に近い。おもしろいものだと思った。
ジュール・ブリュネ
スケッチを描いた人はジュール・ブリュネ(1838-1911年)。フランスの軍人さんである。幕末、徳川幕府は軍法をフランスから学んだ。ジュール・ブリュネは徳川が今まさに倒れようとする直前に来日し、一個隊を訓練し育てた人である。旧幕府が江戸城を開城した後、幕府軍は北へ進み戊辰戦争が始まった。
戊辰戦争
当時、日本にいた西欧の軍事顧問たちは旧政府側、新政府側を問わず、“局外中立”、つまり内戦に直接関わり合いをもたないよう協定を結んだ。いよいよ戦争という段になると日本を離れよと、それぞれの国への帰国命令が出た。ジュール・ブリュネは軍の命令に従わず、脱走。自らが育てた軍を見捨てるに忍びなかったのだ。ブリュネは榎本武揚と行動を共にし、函館戦争にも参加する。
榎本艦隊が、江戸を出、会津藩、新選組の兵士を乗艦させるため、仙台港に寄港した際、このジュール・ブリュネが描いたスケッチがこれである。
彼の目は、自分の目に映るもの、見たままのものをを信じている。そして、大きな構図だけでなく、絵画として全体にはほとんど影響しないと思われる豆粒ほどの人物についても、一人ひとりおろそかにせず、動きある人間としてしっかりと描いている。簡単なスケッチに彼が生来持っていたのであろう人柄が、にじみ出ている。
彼は、当然死を覚悟していたにちがいない。
帰国後のブリュネ
事実はどうなったか。函館戦末期、幕府軍が敗色濃厚となった時、ブリュネは榎本武揚本人から諭され、本国へ帰ることになる。彼の性格からすれば、フランスへ帰ることは一種の逃げであると自分を責めたに違いない。しかし帰国するにしても、もともと軍規違反をしているのであるから、即刻死刑となるはずであった。が、運が彼に味方した。フランスでは世論が彼の行動を賛美し、英雄視した。フランス政府は彼を死刑にできなくなり、結局彼は罪を問われることなく74歳まで生きた。
ラストサムライ
映画「ラストサムライ」は彼ジュール・ブリュネをモデルにして作られた映画である。
塩釜(塩竃)と塩
さて、芭蕉の奥の細道の旅は、多賀城から塩釜港へ向かい港から船で出発している。というか、そのことを右の表示で知った。付近に海の雰囲気はなかったが、江戸時代の海岸線は塩釜神社あたりまであったのだろう。つまりこの辺り海抜は高くない。だからこそ古来塩の生産が盛んとなり、塩釜という地名がついた。
この付近は奈良時代から、多賀城の外港として栄えたにちがいない。人間、米と塩さえあればなんとか生きてはゆける。塩釜の港、そこで豊富に生産し得る塩というものが最初にあって、そこから多賀城のロケーションが決まったのかもしれない、などと思った。
東日本大震災の記憶
海が近いことを知ったのは、潮の香りではなく、塩釜から松島にかけて各所で見つけた東日本大震災の傷あとである。震災後10年になるが、経験していない者には昔の話のように聞こえてしまうが、現地の人にとっては記憶の生々しい最近の記憶、いやむしろ現在進行形で語らねばならないことなのだ。
10年前の2011年3月11日、私は京都駅近くの、ある建物の6階にいた。私は窓の外の京都タワーをぼんやりと見ていた。東日本大震災はその時起こった。揺れを感じてすぐ、この揺れは遠くでとてつもない大きな地震が起こったのだろうと直感した。
それから数時間、私はその同じ場所で身動きできなかった。ただただネット上に流れるニュースを見ていた。何時間後かわからない。おそらくヘリコプターからの映像の録画であろう。津波が広範囲に押し寄せる中、小さな生き物のように、懸命に逃げようとする車の映像を見た。巨大な自然の力の中で、遠くに見える小さな車の姿はあまりにも無力に見えた。あの日見た車はうまく逃げおおせたのだろうか。
人生、逃げてはいけないと考え続けてきた。しかし、もしそれが自分の力だけでは太刀打ちできないことがはっきりしているような、強大な力であるなら、そこから逃げることは正しい選択なのではないだろうか。基本的に技術中心で生きてきた私の仕事人生から、いったん逃げてみようかと、ふと思った。退却は必ずしも敗北を意味しない。格好良く言えば、次の勝ちを狙うための戦略的行動である。
翌2012年2月、私は中国へ発った。
過去、現在、未来
最近、ある優秀な学生さんの作文を読む機会があった。テーマは「未来は過去を変えられる」。私たちの人生で、努力によって変え得るのは未来ではない。変えられるのは過去である。それはこういうことだ。人間はもとより不完全であるから、努力しても思い通りの結果が得られるとは限らない。思わぬ外的要因で大きなダメージを受けることもある。先のことはわからない。極端に言えば運次第である。しかし、これまでに自分に起こったこと、つまり過去の出来度は、それが自分にとって不都合なものであったとしても、そういうことがあったからこそ、今の満足すべき自分があるのだとむしろ好都合であったと転化させることができるというのである。
「逃げた」という自覚はあまりないのだが、筆者が日本を離れ、中国を拠点として仕事をするようになって10年が経った。あの日、中国へ行くと決めたことが、よかったと自信をもって自分に言えるようにはまだなっていない。
退却であったのか新たな旅立ちであったのかは、これからの未来が決めてくれることなのだ。
松島へ
塩釜から松島へ移動。
2階の席の窓からすぐ下に海の見える石田屋という店で、お勧めの「あなご丼」を食べた。店のおばさんが、10年前の津波でこの辺りがどんなにたいへんだったかという話をしてくれる。観光客が少しずつ戻り始めたと思ったら今度のコロナです、明るく楽しそうに話してくれるので余計すごみがある。
宿の部屋はなかなかの絶景。やっと旅行をしているという気分になる。
(2020年8月25日)
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