仙台から多賀城跡へ
遺跡巡りのおもしろさ
大昔の遺跡や出土品の類を見たりするのが大好きである。きっかけは長い受験勉強が終わって大学生活が始まった頃、京都市立博物館だったかで開催された古代エジプト展。金ぴかの装束に包まれたミイラだの副葬品だのが目玉だったような気がするが、そちらはあまり印象に残っていない。
あまり人の集まっていない陳列棚の一つに、数センチにも満たない土まみれの小物がいくつかころころと投げ出すように飾ってあった。古代の子どもの玩具、女の子の髪飾りという風な説明が書いてある。何でもないようなそういうものにじっと見入ってしまった。その小ささから、そのおもちゃと呼ばれるものを実際に持って遊んでいた子供の年齢もなんとなくわかる。
このおもちゃを持って遊んでいた子供は確実にこの世に存在していたのだ。それは間違いない事実だ。そしてやはり他の人間と同じく、人としての人生を送ったのだ。彼は玩具をもっては機嫌よく遊び、あるいは長じては何かについて悩み、何かを生きがいとして生きたはずだ。数千年を経、それらの思念はすべて霧散してはいるが、確実に存在した。
肉体も含め人間的なものは、ほぼ確実に“消滅”しているにもかかわらず、私の目の前にある、小さな土まみれのおもちゃは、これまた”確実”にある。その対比の中に、若い若い私は日本人的“無常観”を理解したような気がした。(20年も生きてないガキに無常もクソもあるものかと今では思うが、過去の自分をけなすのはやめよう)
感受性の枯れ果てた現在の自分にはうまく描写できない。ともかくも私はなにやら感動した。それ以来、昔の人の作ったもの、使ったもの、見たものなどを観察し、それを作り上げた人、使った人、見た人の生活や気分などを想像しながら、ぼんやり物思いにふけるのが好きになった。
仙台から国府多賀城へ
東北旅行2日目の午後は仙台を離れ、北へ。多賀城から塩釜、松島を目指した。仙台駅からJR在来線に乗る。まずは多賀城跡へ。多賀城は創建724年と言われ、奈良、平安時代の北方支配の拠点である。日本人なら小学校の時に習う征夷大将軍の坂上田村麻呂も、この辺りから北へ夷狄征伐に向かった。そういう古代の東北の要害の地を目指して、国府多賀城駅で降りてみると、ほとんど人を見かけない。駅前には立派な「東北歴史博物館」ができているもの、付近はちょっと寂しい。これから売り出しということなのかもしれない。
案の定、多賀城跡は復元のための工事中であった。看板には2024年に創建1300年を迎えるのでこれに合わせ政庁南大路と古代役所の建物の復元工事が行われているとある。政庁へ向かう大路の一部をゆっくり歩いてみた。筆者としてはこれで充分である。
目的のものは少し離れた別の丘陵にあった。多賀城碑、別名壺碑または「つぼの石ぶみ」である。「つぼのいしぶみ」とは歌枕、つまり和歌などに定型句として読み込まれる語の類で「たらちねの」とか「ひさかたの」とか高校で習った記憶がある。歌枕はそれぞれ意味するところがあるが「つぼのいしぶみ」とは「はるか遠くにあるもの」という意味を和歌に与えるそうだ。古来、多くの歌よみたちがこの歌枕をつかって和歌を詠んだ。
和泉式部、西行、源頼朝、岩倉具視…となかなかの顔ぶれだが、みな「つぼのいしぶみ」がどこにあるかわからない、わからないから「はるか遠くにあるもの」として歌を詠んだ。
西行が憧れ、芭蕉が訪れた
山家集にある西行の歌
(東北の奥地は、なにとなく品位が感じられる。壺の碑あるいは外海からの浜風を感じてみたい。行ってみたくて心がひかれることだ。)
いくつもの時代の、何人もの人が憧れ歌に詠んだその場所へ、実際に来て立っているというのは実に感動的なことである。
さらにそのこと、つまり古代から多くの有名人がこの地のことを和歌に詠んだという重層的な歴史を了解した上で、今自分が立っている正にこの場所に、江戸時代にやって来た人物がいる。
松尾芭蕉(1644-94年)とその弟子曾良である。
芭蕉は『おくのほそ道』の旅の中でこの場所に来た時の感動を書いている。
(碑が発掘されて永久の記念となり、これを目の前に見ていると昔の人々の心が理解される。この旅の果報、命のあることの喜び、苦労の多い旅のことなども忘れて感動のあまり涙が出るばかりだ。)
芭蕉が、めったやたらに感動している。
芭蕉は曾良と共にこの場所にたってこの碑文を見たのだ。そして世の中の移り変わり、無常を感じ、その中で変わらない壺のいしぶみを探し当て、この場所でただただ立ち尽くしたのであろう。
芭蕉と同じ感慨にふけっているような気分がして、なにやらむしょうに嬉しくなった。
(2020年8月25日)
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