書名は忘れてしまいましたが大前研一氏がこんな風なことを書いておられました。
「サラリーマンは、50歳になった時点で、社長になっているか、または小さくとも自ら興したビジネスを持っていなかったら、基本的に人生の設計を間違えたと考えてよい。人間としての価値はともかく、会社人間としては人生を空振りしたといえる。」
おそらく「勝ち組・負け組」という言葉がビジネスマンの流行語であったような、90年代か2000年初頭の著書でしょう。「人間としての価値はともかく」との但し書きは入っていても、「人生の設計を間違える」、あるいは「人生を空振り」という手厳しい言いようは、令和の時代には少し合わないかもしれません。実際、これでは企業人として生きる人々のほとんどが最終的には“人生を空振り”して終わるということになってしまいます。
しかし、おそらく40歳前後であった私は、この言葉に反発を覚えるどころか、「よし!50歳になるまでになんとか一国一城の主に!」と心を決めたもの、結果いつしか日常の中で大いなる野心は削り取られ、自己を正当化する言い訳ばかりうまくなり、「大前式空振り人生」の道を進んできたのかもしれません。
「やりたいことをやれ!、さもなくばせめて勤めている会社でトップに上り詰めよ。それもだめなら仕事人生むなしいぞ!」そう檄を飛ばす大前氏。大前氏に言われるまでもなく、人として生まれたからには人間、自分でやりたいと思うことの一つや二つはあるでしょう。しかしその思いを持ち続けることのできる人は20%程度であるといいます。そこから次のステップ、つまり本当にやる人というのはその中の1%程度で、もっとも障壁が高くなるそうです。そしていったんやり始めたとしてもそれをやり続ける人はその中のさらに3%、そして結果を出すのがさらにさらにその中の3%。
結局のところ、やりたいことがやれ、”空振り”しない人生を送る人間は、計算するのもばかばかしいくらい少数派ということになります。
と、こんな風に書いてきた私ですが、それでも”人生を空振り”したと思っているわけではありません。
庄司薫の「さよなら怪傑黒頭巾」という小説があります。芥川賞をとり有名になった「赤頭巾ちゃん気をつけて」と異なり、文学作品としてあまり価値が高くないと言われていますが、ずっと昔、愛読していた時期があります。
テーマは“男の生きざま”といっていいでしょう。
男の人生というものはひたすら目標や頂点をめざし歩みを進めるもの。気がつけば自分の周囲には道半ばで力尽きた同胞の死屍累々たる惨状がある。そして自らもいつか力尽きることを予感しつつ、それでも歩き続けてゆく。
それ以外、男の生きる人生はない、という風なエンディングであったような。
いつか子供の頃にあこがれた怪傑黒頭巾に別れを告げるときが来る。しかしその最後の瞬間まで歩み続ける。その人生は決して空振りではないと考えたいのです。
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